山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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前山古城③

2017-03-30 21:36:28 | 山城ー信州
前山北城(宮坂氏の描く前山古城と便宜的に分けています。)の二の丸から本丸へ


前山北城三の丸の南西奥の土塁を越えて

土塁を反対方向から見ています。

前山北城二の丸

前山北城二の丸と本丸とを隔てる空堀

前山北城本丸

本丸の南西奥にはやはり土塁

前山北城の本丸から南側を走る段曲輪は、前山古城の北東へ通じています。このことから、前山北城と古城は一つの山城であると私は見ています。

武田氏麾下に属す
永正六年(1509)、将軍足利義尹(義稙)は関東管領上杉顕定に命じて、伴野六郎と大井太郎の争いを和解させている。その翌年、顕定は越後国長森原で長尾為景・高梨政盛らと戦って討死した。顕定の調停によって和解した伴野六郎は貞慶、大井太郎は行満とするものもあるが、確証はない。ちなみに、このころの前山城主は伴野貞祥で、大井城主は玄慶のあとを継いだ忠孝か貞隆であったと想定される。伴野氏と大井氏の争いはその後も続き、この両者の対立を利用して武田氏が佐久郡を制圧することになるのである。
   大永元年(1521)、貞祥は祖父光利三十三回忌・父光信七周忌の追善のため、前山に貞祥寺を開基した。大永七年、「甲斐の武田信虎が伴野氏に頼まれて信州に出立したが、信州方が一つになって、伴野氏は行方不明になった」ことが『妙法寺記』などから知られる。この伴野氏は貞慶ともいわれるが、前山城主は貞祥であった。
 この事件は、大井貞隆を中心とする信州の諸将が伴野方に反撃したとき、武田信虎は伴野氏を支援するかたちで、佐久郡侵攻を目論んだものであろう。天文九年(1540)、武田信虎は板垣信形を大将として佐久郡へ侵攻を開始した。伴野氏は武田軍の侵攻に協力して前山城に武田氏を迎え入れたようだ。そして、武田氏は前山城を根拠地として佐久郡を制圧していったのである。おそらく、伴野氏と武田氏とは永年にわたって親睦関係を築き、それを背景として武田氏は佐久郡に侵攻してきた。そして、このころから伴野氏は武田氏に属するようになったと思われる。天文十八年六月、「伴野左衛門方始て出仕」したことが『高白斎記』にみえ、この伴野左衛門は貞祥の嫡男信守の弟にあたる人物と思われる信豊であろうとされている。
 戦国時代における伴野氏に関していえば、諸記録にさまざまな伴野氏が登場している。ひとつは、光利に敗れて討死した野沢系の伴野氏、そして、それを受け継いだと思われる野沢城主伴野氏、それに大沢城主の伴野氏が加わって三家の伴野氏が存在していたようだ。このように、室町から戦国期における伴野氏の動向・系譜関係は不明な点が多く、その歴史は不明瞭といわざるをえない。 武家家伝より


ここで言う前山城は古城から北1.2kmにある山城の事です。近くには前山寺があります





伴野氏の菩提寺・貞祥寺


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