山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

大明神山の砦②

2017-04-06 21:25:20 | 山城ー上州
本丸へ

本丸に向かい

東虎口に入ると

本丸南下曲輪と空堀

空堀を西に下ると

西帯曲輪

本丸東城壁

東側を見下ろすと、狭い腰曲輪の間から下を見下ろせて、大手道を眼下にできます。

本丸

この説明板では北条氏の侵攻に備えて真田昌幸が築城したものと伝えているという。

狼煙台という機能だけでなく、北の地方道54号線(長野原倉淵線)は西へ進めば軽井沢に抜けます。この道を監視する役目もあったと思います。

本丸にある祠

縄張り図は「山城探訪 上野編」宮坂武男氏著

倉渕村村史②
沿革書の記載から推察して、はじめこの地方は(倉渕村三ノ倉)木部氏が支配し後に長野市がこれに代わったとみる。そしてその勢力交代の時期は上杉憲房が俗別当職として名を上げていた永正年間(1504から1520)の頃であろう。その理由は永正十年(1513)に長野憲業が大戸の浦野氏を攻めてこれを降しているからである。長野氏と大戸の浦野氏との間には三ノ倉城があり、まず三ノ倉城を手に入れてからでないと大戸城は攻められない。従ってこの時には既に木部氏に代わって長野氏が強大な勢力を持ち木部氏は長野氏の傘下に入っていたものと見られる。しかし、木部氏の方が長野氏より先に勢力を得ていたという事実は、榛名山別当職の沿革をみることと、長野氏が史上に名を顕す以前にすでに管領上杉氏の武将として木部氏は戦史にその名がでていることから知れる。応永二十三年(1416)管領上杉憲基と上杉禅秀との間に戦いがあったが、その時木部氏は憲基の武将として禅秀討伐軍に加わっている。一方長野氏は古来から群馬郡長野地方に根を張っていた豪族ではあるが、史上に名が現れてくるのは長野業政の祖父業尚の頃からである。業尚は文明十八年(1486)に管領上杉顕定に従って出陣している。業尚の子憲業の代に急速に勢力を広げ、付近の豪族を攻めて下した。木部氏もこの頃に長野氏に攻められて降伏し西群馬郡地方の支配権を長野氏に譲ったのではあるまいか。このような史実から、木部氏の榛名山及び三ノ倉地方の支配は応永七年(1400)から永正十年(1513)に至る約百年の間とみる。そして木部新九郎の全透院開基は延徳元年(1489)であるから木部時代末期ということになる。つづく



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。