山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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楽厳寺北城①

2017-05-18 20:42:04 | 山城ー信州
楽厳寺城とある曲輪からの北尾根(釈尊寺の東尾根)分かりやすくするため楽厳寺北城とします。


縄張り図の楽厳寺城の奥にある土塁から北に林道が下っています。

縄張り図は「戦国武田の城」より

北尾根を下って来ると、釈尊寺への道にぶつかります。ここから尾根を登ってゆきます。

細尾根を進み

北尾根第一曲輪

第一曲輪の北城壁

尾根を下り、小曲輪

北尾根第一堀切

峰を登り

振り返り第二堀切

峰の上には第二曲輪

また峰を登ります。

鞍部であり、大堀切

北尾根はまだまだ続きます。

長野市「信州・風林火山」特設サイトより

額岩寺駿河守光氏讒言にあうこと
勘助、義清の忠臣・額岩寺光氏を謀る
 村上義清の家臣・額岩寺光氏は、信州に並ぶ者がない武勇の者で、砥石城の戦いでは、武田の甘利備前守、横田備中守を討ち取り、勇猛・智謀・人に優れ、忠義一途の武士であった。
 山本勘助はこの額岩寺がいるうちは、村上義清を討つことは難しいと考えていた。そこで信州勢の相木市兵衛尉政朝に相談したところ、義清方の寵臣に密使を送り、調略することに成功した。武田方についた義清方家臣は、義清に「額岩寺が君に背き、寝返るかもしれないので油断なきように」と告げ口をした。義清はその家臣の言葉をまるごと信じこみ、以後、額岩寺を遠ざけてしまった。

板垣信方、上田原に討ち死にす

 天文16年(1547)、武田軍は佐久郡志賀城を攻めた。城主笠原新三郎雅直は、村上義清に援軍を頼むが、額岩寺がいない村上方の軍評は決まらず、その間に志賀城は落城。笠原新三郎は討ち死にした。
 武田軍は勝ちに乗じてますます勢いを上げている。無念やみがたい義清は、兵7000を率いて小県郡上田原に陣を取り、武田軍を迎え撃った。甲州の先陣は板垣信方。500人の兵を率いて自ら槍を握って敵陣に攻め入り、義清の先陣を総崩れさせるが、二陣の鉄砲隊により信方は肩を打ち抜かれ、引き返して休むところを急襲。ついには上条織部に首を討ち取られてしまう。

額岩寺光氏の奮戦
 板垣信方の討ち死にを知った飯富、小山田、馬場の面々は板垣が弔い合戦と猛攻をしかけた。引き退く村上方との間に、さっと駒をとどめた武者がいた。
 「我こそ、独武者と呼ばれた額岩寺光氏なり、しばらく人の讒言[ざんげん]によって甲州方と疑われていたが、いま汚名をそそがんためにこの陣頭に推参せり」と叫び、武田の軍勢に飛び込んで、一気に敵28騎を切って落とした。これに鼓舞された村上方の勇士も敵陣に駆け入り、さんざんに戦い、敵の向こう備えも破った。村上義清は額岩寺の変わらぬ忠誠に心打たれ、自らの誤りを心底悔やんだ。







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