山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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長篠の戦い

2015-11-26 23:48:09 | 歴史的事件の考察
長篠の戦いについて、私的な考察

長篠の戦いについて、自分の持っている疑問を挙げながら、歴史資料や歴史家の史論をもとに考えていきます。

●勝頼は兵力一万五千に対し徳川・織田連合軍は四万という兵力差があり、不利な戦いであるにもかかわらず、何故、設楽ヶ原に向かったのかという疑問です。


包囲していた長篠城から転身して勝頼は設楽ヶ原に布陣します。

「当代記」に織田・徳川軍の出現を前にして、勝頼を中心にして軍議が行われたという。その内容は「ここで是非とも一戦を遂げようと勝頼が言ったところ、馬場信春・内藤昌豊・山県昌景・穴山信君・武田信豊などの一族・重臣たちが一斉に反対した。曰く敵は四万、味方は一万、この度は軍を引き、信長が帰陣した後、秋にでもまた出陣して放火・刈田して荒らしまわれば、三河はわけなく屈服する。そうするのがよろしかろうと。ところが長坂釣閑が勝頼に合戦を勧めたため、結局戦うことになってしまった。『甲陽軍鑑』では、長坂釣閑・跡部勝資の二人は、武田を滅亡へと導いた悪臣に仕立てている。長篠の戦に関しては濡れ衣で、五月二十日付の長坂宛ての勝頼書状があり、長坂が従軍していなかったことが明らかだからである。(これについては異説があり近日紹介します。勝頼の側近中の側近が従軍していないなどのことがあろうかと、私は疑問に思っております。)
長篠の陣中でしたためた勝頼の手紙が三通ある。その一つが長坂釣閑への手紙で、二通目は家臣の三浦員久に宛てたもので、もう一通は、側室であろうか「こう」という女性に宛てている。前記の二通は同じ文面で「しからば長篠の地摂り詰め候のところ、信長・家康後詰めとして出張り候といえども、さしたる儀なく対陣に及び候。敵は手立ての術を失い、一段逼迫の体の条、無二にかの陣へ乗りかけ、信長・家康両敵ども、この度本意に達するべきの儀、案のうちに候。」と手紙に勝頼は述べている。兵力の差が三万もあるにもかかわらず、勝頼はむしろ楽観視していたことが伺えます。この自信はいったいなんであったのか。「歴史群像シリーズ 長篠の戦い」より参考としています。

次回 鳶ヶ巣山砦の奇襲の狙いは?


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