本城は長野県塩尻市片丘にあります。
本城地図
塩尻市にある体験学習の森の西側を走る、東山山麓広域農道を南に進むと、アスティかたおかの看板が見えてきます。これを左折し
案内通りに進めば、保養施設、アスティ片丘に着きます。この施設の沢を越えた北山に城址があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/09/c729b8f74366585530c073648a44ed38.jpg)
東山山麓広域農道の道にある看板
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/64/ff7d589942bc086a1ae60ab98acae4c2.jpg)
JAアスティ片丘、この西に駐車場があり、混んでいる時は下の駐車場に停めるようにと断りに行ったときに云われました。この建物の北に民家があり、その民家裏から北側の沢に下りることができます。あとは山を西尾根から登ってゆきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/b3/4da6862f0eabd528fef7ae1f98a17de7.jpg)
幅広い尾根に、土塁で囲んだソフトボールくらいのグランドの大きさの第一曲輪、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/d7/96da314f90e76e82b7ffe6008e66f96f.jpg)
台状の曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/13/0188cf17dbfc329793428f5a0af4791f.jpg)
台状の曲輪を囲んで、深い土塁が囲みます。深いというのは尾根を掘り下げたように見えます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/50/45c3b5af4f768f86f776f1a13f08b2e5.jpg)
大きな第二曲輪が第一の南側に付きます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/62/253ba7202d83a78c449a258088888084.jpg)
第二曲輪の東側土塁
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/84/7776359c342bdc9e647d822b3c816081.jpg)
土塁で仕切り、第三曲輪が北に続き
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/ed/600fe1c181088dda183c9cee26964eb7.jpg)
第三曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/5a/1dfaa571d96b583abfcd88ea5a33632b.jpg)
縄張り図は「信濃の山城と館4」松本・塩尻・筑摩編
これは本当に城址と疑いたくなる遺構ですが、宮坂氏の著書には住民の「逃げ込みの城」とあり、納得できました。「逃げ込みの城」とはお年寄り、女、子供など足弱と言われる人々を合戦の時に隠す砦です。なるほど、本城は単に大きな平地を土塁で囲むだけの施設で住民を隠すことが目的であったことが伺われます。宮坂氏はさらに、南西に北熊井城があり、この詰め城をも兼ねていたのではと推測しております。今回紹介したのは左側の曲輪群です。次回 右手の遺構
本城地図
塩尻市にある体験学習の森の西側を走る、東山山麓広域農道を南に進むと、アスティかたおかの看板が見えてきます。これを左折し
案内通りに進めば、保養施設、アスティ片丘に着きます。この施設の沢を越えた北山に城址があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/09/c729b8f74366585530c073648a44ed38.jpg)
東山山麓広域農道の道にある看板
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JAアスティ片丘、この西に駐車場があり、混んでいる時は下の駐車場に停めるようにと断りに行ったときに云われました。この建物の北に民家があり、その民家裏から北側の沢に下りることができます。あとは山を西尾根から登ってゆきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/b3/4da6862f0eabd528fef7ae1f98a17de7.jpg)
幅広い尾根に、土塁で囲んだソフトボールくらいのグランドの大きさの第一曲輪、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/d7/96da314f90e76e82b7ffe6008e66f96f.jpg)
台状の曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/13/0188cf17dbfc329793428f5a0af4791f.jpg)
台状の曲輪を囲んで、深い土塁が囲みます。深いというのは尾根を掘り下げたように見えます。
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大きな第二曲輪が第一の南側に付きます。
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第二曲輪の東側土塁
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/84/7776359c342bdc9e647d822b3c816081.jpg)
土塁で仕切り、第三曲輪が北に続き
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/ed/600fe1c181088dda183c9cee26964eb7.jpg)
第三曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/5a/1dfaa571d96b583abfcd88ea5a33632b.jpg)
縄張り図は「信濃の山城と館4」松本・塩尻・筑摩編
これは本当に城址と疑いたくなる遺構ですが、宮坂氏の著書には住民の「逃げ込みの城」とあり、納得できました。「逃げ込みの城」とはお年寄り、女、子供など足弱と言われる人々を合戦の時に隠す砦です。なるほど、本城は単に大きな平地を土塁で囲むだけの施設で住民を隠すことが目的であったことが伺われます。宮坂氏はさらに、南西に北熊井城があり、この詰め城をも兼ねていたのではと推測しております。今回紹介したのは左側の曲輪群です。次回 右手の遺構