鳥取城は、天文十四年(1545)ころ、天神山城を本拠地としていた因幡守護山名誠通(のぶみち)が出城として久松山に築いたのが始まりと言われている。その後、天正元年(1573)に山名豊国が鳥取城を因幡山名氏の本城として整備する。「よみがえる日本の城6」学研
この説明は鳥取城でも久松山の山城(山上の丸)を言っています。
天正九年(1581)秀吉は鳥取城に籠る吉川経家を餓死地獄に貶め開城させた。この後に入城したのが宮部継潤であったが、慶長五年(1600)関ヶ原で西軍に味方した宮部氏は改易と成り、替わって、池田恒興の三男池田長吉が六万石で入封した。長吉は城の中心を山麓に移して四年がかりで城の大改築を行う。現在の近世城郭はこの時の修築と言われている。「同著」
近世城郭を鳥取城、久松山の山城は「よみがえる日本の城」では山上の丸としています。
二の丸の北壁の岩を石切り場としていたようです。
三階櫓が建っていた当時は、麓からよく見えて壮観であったろうと思います。
鳥取地震という大きな地震によって石垣が崩れ大修築を行ったようです。
三階櫓から大手階段、二の丸西側を見ています。
麓にある仁風閣(前回記事で説明)
縄張り図「よみがえる城6」、左の離れた縄張りが久松山城です。
本丸への大手
菱櫓から表御門を見ています。
菱櫓の南側を見ています。
縄張り図で三の丸と書かれた北上の二段の曲輪を見ています。その下に庭園であったそうです。
次回 近世城郭(鳥取城の本丸へ)
この説明は鳥取城でも久松山の山城(山上の丸)を言っています。
天正九年(1581)秀吉は鳥取城に籠る吉川経家を餓死地獄に貶め開城させた。この後に入城したのが宮部継潤であったが、慶長五年(1600)関ヶ原で西軍に味方した宮部氏は改易と成り、替わって、池田恒興の三男池田長吉が六万石で入封した。長吉は城の中心を山麓に移して四年がかりで城の大改築を行う。現在の近世城郭はこの時の修築と言われている。「同著」
近世城郭を鳥取城、久松山の山城は「よみがえる日本の城」では山上の丸としています。
二の丸の北壁の岩を石切り場としていたようです。
三階櫓が建っていた当時は、麓からよく見えて壮観であったろうと思います。
鳥取地震という大きな地震によって石垣が崩れ大修築を行ったようです。
三階櫓から大手階段、二の丸西側を見ています。
麓にある仁風閣(前回記事で説明)
縄張り図「よみがえる城6」、左の離れた縄張りが久松山城です。
本丸への大手
菱櫓から表御門を見ています。
菱櫓の南側を見ています。
縄張り図で三の丸と書かれた北上の二段の曲輪を見ています。その下に庭園であったそうです。
次回 近世城郭(鳥取城の本丸へ)