山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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大塚城④

2018-01-01 18:43:37 | 滋賀県の山城
明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。


北尾根第六曲輪、ことごとく北に意識した土塁を形成した曲輪を作っています。

空堀

北尾根第七曲輪

虎口

虎口から北尾根第三堀切

第三堀切を北から見返しています。攻めるに容易でない勾配です。

第三堀切を越えて瘤があり

浅い空堀の先に北尾根第八曲輪

第八曲輪の北側に腰曲輪

鞍部から尾根は登り

北尾根第九曲輪

第四堀切で城域です。大塚城は北尾根を第九曲輪まで構築し、本城の粟野城の北を守る支城であったと思われます。

次回 口粟野岩花城

皆川広照の家督継承

天正4年(1576年)に兄の広勝が29歳で急死したことから家督を継いだ。
天正5年(1577年)宇都宮方であった皆川家に北条氏が大軍を持って攻めたてたが、これを防いでいる。同年、粟野城主であった平野久国の軍勢が皆川城の支城である川連城に夜討ちを行った。この奇襲で川連城は炎上。城主であった川連仲重は討死し、一時城は陥落したが皆川家が奪回している。この川連城の戦いで命を失った仲重の娘の悲話『七ひろ蛙』が、今もなお語り継がれている[1]。
天正6年(1578年)、上杉謙信が没すると佐竹氏を中心に北関東の領主が連合を結び広照も加入した[2]。
天正7年(1579年)に北条氏が佐竹氏、宇都宮氏、那須氏、結城氏連合軍と下総国小川の原で対陣すると、広照は北条方として参陣した。両軍の対陣は2ヶ月にも及ぶが決着が付かず、両軍は退陣した。この戦い以後、北条氏の北関東攻略は停滞することとなり北関東の混乱は終息していった[3]。
この頃、広照は皆川城の東の支城である栃木城の拡張に着手。川連城下にあった圓通寺、常願寺などの寺社を相次いで移築させている[4]。ウィキペディアより

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