二の丸から本丸へ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/a1/8e31e97c8ee30c2b57329e3de2d62285.jpg)
冠木門をくぐります。手前の段が二の丸、奥の段が本丸、立っているところが三の丸
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/30/f24e3aa33dd708dbdbf0dcf4bfea0839.jpg)
今は改変されて、足元が三の丸と思えませんが、当時の図であれば納得いきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/38/edcbc1100f1ef833fea48f9347471cce.jpg)
二の丸城壁
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/b4/74962569a466fede42611838c47536cb.jpg)
二の丸に立っています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/ac/b0d5b8b1444e4dbccea0e76a657585d5.jpg)
振り返って見ています。奥の段は曲輪4です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/a8/ec1a761a8ccefd487aa50eeff01eaaeb.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/d0/7e9e3bb2c05fae95982a95d4820a24f1.jpg)
見事な、忘れることができないほどの感動的な石垣です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/dc/53e87950b571405cf9f4c1fbdd2c6b46.jpg)
二の丸を見下ろしています。三の丸は鞍部にあたります。ここから見ると三の丸?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/6e/f7f3eda9ac8baeb91f3a2f242477fa06.jpg)
本丸
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北側の景色は抜群で麻績村方面です。
次回 曲輪4・5 そして南尾根堀切群
麻績氏について
麻績氏(小見氏)は、信濃国筑摩郡麻績郷(現・長野県東筑摩郡麻績村)の豪族。その始まりは鎌倉時代に遡り、小笠原長親が麻績の地頭となり麻績氏を称した。即ち小笠原氏の庶流であり、阿波小笠原氏や石見小笠原氏と同祖である。
このことは「中興武家系図」に、
麻績、清和、本國信濃、小笠原阿波守長房の男、四郎長親これを称す。
とあることからも伺える。
一族の詳しい動向や系図は不明だが、諏訪頼重の側室で武田勝頼の祖母にあたる女性は小笠原の家臣 小見(麻績)氏の娘とされており、麻績氏の一族と伝わる青柳氏の青柳清長(麻績城に入り麻績清長と改名)が武田信玄の下(軍役は10騎と伝えられている)で活動している。
生島足島神社に残された武田信玄配下多数の起請文の中に麻績清永の物は2通あって異彩を放っている。前日付の決まりきった内容と異なる翌日の再提出文は国侍同士で仲良くしないこと。特に互いに元村上氏の配下であって領地を接している屋代氏や室賀氏、大日方氏とは殊更仲良くしないことを誓わされている。
これらのことから、少なくとも戦国時代までは武家として存続していたようである。ウィキペディアより
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冠木門をくぐります。手前の段が二の丸、奥の段が本丸、立っているところが三の丸
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今は改変されて、足元が三の丸と思えませんが、当時の図であれば納得いきます。
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二の丸城壁
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二の丸に立っています。
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振り返って見ています。奥の段は曲輪4です。
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見事な、忘れることができないほどの感動的な石垣です。
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二の丸を見下ろしています。三の丸は鞍部にあたります。ここから見ると三の丸?
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本丸
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北側の景色は抜群で麻績村方面です。
次回 曲輪4・5 そして南尾根堀切群
麻績氏について
麻績氏(小見氏)は、信濃国筑摩郡麻績郷(現・長野県東筑摩郡麻績村)の豪族。その始まりは鎌倉時代に遡り、小笠原長親が麻績の地頭となり麻績氏を称した。即ち小笠原氏の庶流であり、阿波小笠原氏や石見小笠原氏と同祖である。
このことは「中興武家系図」に、
麻績、清和、本國信濃、小笠原阿波守長房の男、四郎長親これを称す。
とあることからも伺える。
一族の詳しい動向や系図は不明だが、諏訪頼重の側室で武田勝頼の祖母にあたる女性は小笠原の家臣 小見(麻績)氏の娘とされており、麻績氏の一族と伝わる青柳氏の青柳清長(麻績城に入り麻績清長と改名)が武田信玄の下(軍役は10騎と伝えられている)で活動している。
生島足島神社に残された武田信玄配下多数の起請文の中に麻績清永の物は2通あって異彩を放っている。前日付の決まりきった内容と異なる翌日の再提出文は国侍同士で仲良くしないこと。特に互いに元村上氏の配下であって領地を接している屋代氏や室賀氏、大日方氏とは殊更仲良くしないことを誓わされている。
これらのことから、少なくとも戦国時代までは武家として存続していたようである。ウィキペディアより