山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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須賀川城③

2018-02-01 16:59:19 | 滋賀県の山城
曲輪3から東尾根


北尾根中央から本丸の北城壁まで戻って来て

本丸東堀切を越えて

曲輪3から本丸東城壁を見ています。

曲輪3を西から見ています。

土橋を渡り

二重堀

二重堀の東、ここで城域です。

戻って来て、本丸から土橋を西に進めば二の丸ですが

西北尾根に下ります。二の丸・本丸の城壁が見事です。

西北尾根第一腰曲輪

この腰曲輪は犬走が本丸北側下へ通じています。

西北尾根第二曲輪、この先は記事①の登ってきた縄張り図Cのところになります。

俯瞰図は「余湖くんのお城のページ」より

須賀川城は終了です。次回 那須七騎 芦野城

那須氏の内紛に乗じた佐竹氏の介入

 高資が殺されたあと、烏山城主となった異母弟資胤は、永禄三年(1560)、奥州小田倉で葦名盛氏と戦ったが那須勢の結束が弱く苦戦した。一時は大将資胤が負傷して自殺しようとするほどに敗色濃厚となったが、那須下庄の森田・千本氏らの来援によって奥羽軍を撃退できた。戦後、資胤は小田倉の戦いにおける苦戦は大関高増の策謀であると決めつけ、高増を除こうと謀った。これが露見して、大関・大田原氏ら上那須衆は常陸の佐竹氏に走り、上那須の諸将は資胤に敵対するようになった。
 上那須の大関・大田原氏は資胤にとっては近い親族であり、かれらは、那須氏の動向を左右する力を持ち、主家の那須氏を滅ぼすことも考えていたようだ。それが、小田倉の戦いにおいて顕われ、資胤の怒りをかったものと思われる。加えて、那須氏一族の分裂を意図した佐竹氏の策謀が上那須衆のなかに伸びていたこともあったろう。資胤と敵対した上那須衆は資胤兄弟を討ち、佐竹氏から養子を迎えようと策謀して、佐竹氏を後楯に永禄六年(1563)兵を挙げた。以後、数度の合戦が行われ、那須氏は最大の危機に直面した。
 永禄九年になると、上那須衆を中心とする佐竹勢、それに呼応した宇都宮勢などが神長村治部内山に来攻してきた。烏山勢は必死の戦いを展開し一進一退を繰り返したが、ついに敵将東政義を取り囲み、政義が降伏したことで来攻軍は統制を失い退散した。また、この合戦に際して上那須衆の歩調が乱れていたことも烏山勢にとって勝利につながった。
 その後も、上那須衆は佐竹氏を頼んで資胤と対立した。永禄十年二月、「大崖山の戦い」では佐竹勢の猛攻の前に、那須勢は劣勢となったものの奇策をもって佐竹勢に大被害を与え、かろうじて佐竹勢を追い落した。敗れた佐竹軍は、四月、三たび烏山に侵攻し那珂川の東に布陣した。これに呼応した上那須衆は、烏山城の北から押し寄せ挟撃してきた。烏山城に籠城した資胤は、このときも奇策をもって防戦し、ついにこれを退散させることに成功した。
 何度戦っても勝つことができない上那須衆に反省の色が見えはじめ、それと察した資胤の家臣興野義成が和睦交渉に乗り出し、ついに資胤と上那須衆との和解が成立した。こうして、那須氏は最大の危機を克服し、逆に家臣団の和合により、資胤・資晴父子は再び那須郡に君臨した。そして、積極的に他領への侵攻を行うようになり、那須氏の武名をますます上げることになる。 武家家伝より

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