滋賀県の山城、清水山城・宇佐山城・北之庄城・安土城と廻ってきました。これを紹介してから栃木の城に戻ります。
清水山城地図
JR湖西線の新旭駅を西に進むと森林公園があり、その西側の山が清水山城です。国指定の山城で規模がとても大きな山城ですが、思わぬ軍団のボスに警戒され、ボスの監視の下で城を歩いてきました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/44/ea8b74f11f8a9a41486aed5f498f7d1c.jpg)
西側の入り口、害獣柵を開けて入りますと、この縄張り図があります。西の谷川に廻って、大きな曲輪が主郭の西下にあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/8f/d97d32c6a48a3959c5206ef88b9caace.jpg)
北から見ています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/3b/acd3cbc64ee5be435c25b4cec4a5d898.jpg)
西の先端部から北を見ていますy。100mはある西曲輪です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/bd/3fc64c6bb6d0bc9cd0e226c3b8dac1a6.jpg)
西曲輪から南に尾根を登って
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/a6/f87941db3fe2f2d373c60feacb12d0af.jpg)
南尾根の幾つかの曲輪を越えて
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0e/39/5c6b3be1587499234995a7e90dda638f.jpg)
尾根の東下に腰曲輪
この先は三の丸、二の丸、本丸と続いていますが、猿軍団のボスが三の丸に潜んでいるのが分かり、やむを得ず東下の谷から二の丸へ経由することにしました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/d7/99191d380b72b71f2523fbd3a18336e9.jpg)
左手奥が登ってきた南尾根、目前の斜面は三の丸の城壁
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/2c/9953142c4562254fedaba9986b3920ee.jpg)
左手が二の丸城壁。大堀切の右が本丸城壁
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/12/167c8c0ffb7ebb2739aadee29161d35f.jpg)
二の丸
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/65/5c73043db84990a0578c5a13de3f6639.jpg)
二の丸の土塁が東・南に構築されています。
次回 本丸
説明版の佐々木信綱について
生涯
養和元年(1181年)頃、後に近江国守護を務める佐々木定綱の四男として誕生。建保2年(1214年)には左近衛将監を務めており、同年1月22日や7月27日の『吾妻鏡』にその名が見られる。承久2年(1220年)7月26日、出家し経仏と号したという。
承久3年(1221年)6月14日、承久の乱に鎌倉幕府軍として加わり、宇治川を挟んで対する官軍を攻めるべく、芝田兼義、中山重継、安東忠家らと共に川へと入るが、官軍からの矢と急流により渡れず、中州において長男・重綱を総大将である北条泰時の陣へと遣わし援軍を求め、泰時の長男である時氏と共に川を渡り官軍を破る。これにより乱の大勢は決し、7月2日に官軍に属した長兄・広綱は斬首となり、翌年の9月22日に信綱は宇治川での戦功により佐々木氏の本貫地である近江佐々木豊浦庄、羽爾堅田庄、栗本北郡の地頭職を得る。
嘉禄2年(1226年)1月、前年暮れに元服した藤原頼経の征夷大将軍宣下を得るための朝廷への使者を務め、寛喜4年(1232年)には近江守に任ぜられる。文暦2年(1235年)、承久の乱で得た佐々木豊浦庄に代わり、尾張国長岡庄の地頭職を得る。
仁治3年(1242年)3月6日、死去。享年61。蒲生郡[4]にて老曽明神として祀られたという。
清水山城地図
JR湖西線の新旭駅を西に進むと森林公園があり、その西側の山が清水山城です。国指定の山城で規模がとても大きな山城ですが、思わぬ軍団のボスに警戒され、ボスの監視の下で城を歩いてきました。
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西側の入り口、害獣柵を開けて入りますと、この縄張り図があります。西の谷川に廻って、大きな曲輪が主郭の西下にあります。
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北から見ています。
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西の先端部から北を見ていますy。100mはある西曲輪です。
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西曲輪から南に尾根を登って
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南尾根の幾つかの曲輪を越えて
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尾根の東下に腰曲輪
この先は三の丸、二の丸、本丸と続いていますが、猿軍団のボスが三の丸に潜んでいるのが分かり、やむを得ず東下の谷から二の丸へ経由することにしました。
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左手奥が登ってきた南尾根、目前の斜面は三の丸の城壁
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左手が二の丸城壁。大堀切の右が本丸城壁
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二の丸
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二の丸の土塁が東・南に構築されています。
次回 本丸
説明版の佐々木信綱について
生涯
養和元年(1181年)頃、後に近江国守護を務める佐々木定綱の四男として誕生。建保2年(1214年)には左近衛将監を務めており、同年1月22日や7月27日の『吾妻鏡』にその名が見られる。承久2年(1220年)7月26日、出家し経仏と号したという。
承久3年(1221年)6月14日、承久の乱に鎌倉幕府軍として加わり、宇治川を挟んで対する官軍を攻めるべく、芝田兼義、中山重継、安東忠家らと共に川へと入るが、官軍からの矢と急流により渡れず、中州において長男・重綱を総大将である北条泰時の陣へと遣わし援軍を求め、泰時の長男である時氏と共に川を渡り官軍を破る。これにより乱の大勢は決し、7月2日に官軍に属した長兄・広綱は斬首となり、翌年の9月22日に信綱は宇治川での戦功により佐々木氏の本貫地である近江佐々木豊浦庄、羽爾堅田庄、栗本北郡の地頭職を得る。
嘉禄2年(1226年)1月、前年暮れに元服した藤原頼経の征夷大将軍宣下を得るための朝廷への使者を務め、寛喜4年(1232年)には近江守に任ぜられる。文暦2年(1235年)、承久の乱で得た佐々木豊浦庄に代わり、尾張国長岡庄の地頭職を得る。
仁治3年(1242年)3月6日、死去。享年61。蒲生郡[4]にて老曽明神として祀られたという。