山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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平尾城②

2018-11-02 21:14:30 | 山城ー信州
西尾根の腰曲輪群を見てゆきます。


曲輪2

曲輪3

曲輪4

曲輪5

曲輪6

曲輪7

曲輪7は北側に段曲輪が付いています。

曲輪8

曲輪9

曲輪10、すべてを紹介してもと思い幾つか曲輪を省略しています。

本丸が近くなってくると岩が多数見えてきます。

本丸を支える大岩
次回 本丸・二の丸・三の丸へ

平尾氏の本家依田氏①
依田氏の先祖は『尊卑分脈』によれば、清和源氏満快流の為公が信濃守となって信濃に下り、その子孫が伊那・松本・上田盆地に広がった。そのうち依田庄を開発した為実が依田氏を称して、依田氏の祖になったとある。
 余田二朗実信は源平合戦のとき、木曽義仲に属して京都に攻め上ったが、義仲が頼朝に滅ぼされると、依田庄は茂木氏に与えられ、依田氏は飯沼を領するだけの小領主となり、飯沼氏を称した。その後、北条氏執権下において、得宗家臣となって次第に勢力を盛り返し、茂木氏の支配に抵抗して、依田庄の支配権を回復していった。
 鎌倉幕府の滅亡に際して依田氏は、足利尊氏に属して依田庄の支配権を確保するとともに、室町幕府の奉行人となり、応安六年(1373)将軍足利義満のときには、依田左近太夫入道元信は評定衆に加えられた。信濃に本拠をもつ武士のなかで、幕府の最高裁決機関である評定衆に列したものは、依田氏以外には例がなく、依田氏の室町幕府内における地位は注目すべきものがある。

依田氏の発展

 南北朝期以来、依田氏は依田荘全域を支配し丸子郷に進出し、箱畳峠を越えて立科方面までも支配下におさめようとした。そして、箱山城・善正城を築いて芦田古町に進出し、芦田古城を築いた。ところが、芦田古城の築城は、佐久の強豪大井持光を刺激し、芦田と大井の争いに発展した。この争いに対してときの将軍足利義教は大井氏支持を決め、信濃守護小笠原政康に芦田征伐を命じた。
一方、芦田氏は村上・海野・禰津氏らの国人連合の支援をえて対抗、村上氏は関東公方足利持氏の力を背景としていたことから強気の姿勢を示した。しかし、公方持氏は将軍義教との衝突を憂慮する管領上杉憲実の諌止によって出兵ができず、小笠原政康は永享八年(1436)三月、海野・禰津氏らの本拠を攻めて破った。このため、芦田氏は孤立して守護軍に降り、村上氏も敗れて幕府に降伏した。
 以後、芦田氏は大井氏の家臣となり、その執事を勤める重臣の位置を占めた。永享十二年の結城合戦には大井持光の命を受けて、清野氏とともに足利持氏の遺児永寿王丸を危険をおかして結城城に送り込むという重要な任務を果たしている。その後、永寿王丸は成人して、足利成氏を名乗り鎌倉公方になった。
 文明十一年(1479)、大井氏の家督を継いだ大井城主政光が、前山城の伴野光信と合戦をして大敗した。政光は伴野方に生け捕りされ、執事の阿江木入道も討死した。この阿江木氏は芦田氏の支流で、「一に芦田、二に相木(阿江木)」と称される大井氏の重臣の一人であった。その後、政光は開放されて大井城に復帰したものの失意のまま若死した。そして、弟の安房丸が大井氏を継いだが、文明十六年(1484)、村上政清の大軍に攻められて大井城は落城し大井宗家は滅亡した。大井宗家の滅亡後の芦田氏の動向については明らかではないが、大井氏の支配から脱して芦田領主として自立の道を歩んだものと考えられる。
 応仁・文明の乱が京都で勃発すると、その余波は日本各地に戦乱の時代を招来した。信濃も例外ではなく、にわかに騒がしくなった。 武家家伝より

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