二の丸から北尾根、本丸へ
二の丸
二の丸から北尾根を下り
北曲輪1
北曲輪2
北尾根空堀
本丸、北側には石垣
石垣に近づいて、青柳城と同様に石垣が配されています。
本丸
本丸西奥にある井戸と謎の大きな石
小笠原貞慶について
父・長時の時代に甲斐国の武田晴信(信玄)が信濃侵攻を開始し、長時は小県郡の村上義清らと共に武田氏に対抗するが、天文17年(1548年)の塩尻峠の戦いにおいて敗退する。以後、諸国を放浪。
『小笠原系譜』『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』など近世期の系譜史料に拠れば、長時親子は信濃没落後に上杉氏を頼り越後国へ逃れた後、伊勢国を経て京へ逃れ、同族の京都小笠原氏や三好氏を頼ったという。
京において長時親子は信濃復帰を望み運動して、永禄4年(1561年)に貞虎(貞慶)は長時とともに本山寺(大阪府高槻市)に対し旧領復帰の際には寺領寄進を約束している[2]。なお、本山寺文書に拠れば貞慶は諱を「貞虎」から「貞慶」に改名しており、「虎」の字は越後亡命時代の元服した際に長尾景虎(上杉謙信)から偏諱を拝領し、京で三好長慶から「慶」の字を拝領して「貞慶」に改名した可能性が考えられている[3]。本山寺に対して祈願文書が発給された永禄4年には上杉氏と武田氏の間で川中島の戦いが行われているが、永禄4年の第四次合戦を契機に北信を巡る争いは収束し、長時親子も旧領回復には至っていない。
長時は長慶の死後、越後国の上杉謙信のもとへ再び寄寓した後、会津蘆名氏のもとに寄寓し、天正7年(1579年)会津を訪れた貞慶に家督を相続させた(『笠系大成』)。一方の貞慶は京に残り、将軍・足利義昭に仕えた。しかし織田信長が義昭を追放すると、天正3年から同9年ごろにかけて、信長の使者として東国諸大名への対武田・対上杉・対後北条交渉を担当し、信濃筑摩郡に所領を約束された。天正10年(1582年)の甲州征伐では深志城を落城させた織田長益に拝謁したが[4]、小笠原旧領は木曾義昌に安堵されたため、その回復は実現しなかった。同年6月の本能寺の変で信長が横死した後の天正壬午の乱において旧領回復を狙い徳川家康の家臣となる。 ウィキペディアより
二の丸
二の丸から北尾根を下り
北曲輪1
北曲輪2
北尾根空堀
本丸、北側には石垣
石垣に近づいて、青柳城と同様に石垣が配されています。
本丸
本丸西奥にある井戸と謎の大きな石
小笠原貞慶について
父・長時の時代に甲斐国の武田晴信(信玄)が信濃侵攻を開始し、長時は小県郡の村上義清らと共に武田氏に対抗するが、天文17年(1548年)の塩尻峠の戦いにおいて敗退する。以後、諸国を放浪。
『小笠原系譜』『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』など近世期の系譜史料に拠れば、長時親子は信濃没落後に上杉氏を頼り越後国へ逃れた後、伊勢国を経て京へ逃れ、同族の京都小笠原氏や三好氏を頼ったという。
京において長時親子は信濃復帰を望み運動して、永禄4年(1561年)に貞虎(貞慶)は長時とともに本山寺(大阪府高槻市)に対し旧領復帰の際には寺領寄進を約束している[2]。なお、本山寺文書に拠れば貞慶は諱を「貞虎」から「貞慶」に改名しており、「虎」の字は越後亡命時代の元服した際に長尾景虎(上杉謙信)から偏諱を拝領し、京で三好長慶から「慶」の字を拝領して「貞慶」に改名した可能性が考えられている[3]。本山寺に対して祈願文書が発給された永禄4年には上杉氏と武田氏の間で川中島の戦いが行われているが、永禄4年の第四次合戦を契機に北信を巡る争いは収束し、長時親子も旧領回復には至っていない。
長時は長慶の死後、越後国の上杉謙信のもとへ再び寄寓した後、会津蘆名氏のもとに寄寓し、天正7年(1579年)会津を訪れた貞慶に家督を相続させた(『笠系大成』)。一方の貞慶は京に残り、将軍・足利義昭に仕えた。しかし織田信長が義昭を追放すると、天正3年から同9年ごろにかけて、信長の使者として東国諸大名への対武田・対上杉・対後北条交渉を担当し、信濃筑摩郡に所領を約束された。天正10年(1582年)の甲州征伐では深志城を落城させた織田長益に拝謁したが[4]、小笠原旧領は木曾義昌に安堵されたため、その回復は実現しなかった。同年6月の本能寺の変で信長が横死した後の天正壬午の乱において旧領回復を狙い徳川家康の家臣となる。 ウィキペディアより