イベント情報
-新潟県立歴史博物館メールニュース-
県立歴史博物館では、現在、秋季企画展「川中島の戦い―上杉謙信と武田信玄―」を開催しています。その記念講演会を10月22日(日)に開催します。
上杉謙信と武田信玄が川中島地方で争った川中島合戦は、華やかな合戦絵巻に彩られ、現在でもその激戦ぶりが喧伝されています。江戸時代以降、この戦いがどのように伝えられてきたのか、草双紙などを研究してこられた石川博先生にご講演いただきます。
◆ 期日 平成29年10月22日(日)
◆ 時間 13:30~15:00
◆ 講師 石川博氏(駿台甲府小学・中学・高等学校指導監)
◆ 会場 新潟県立歴史博物館 講堂
◆ 定員 150名 (要申込)
◆ 料金 無料
◆ 申し込み方法
電話、はがき、ファックスまたはメールで下記までお申し込みください。
講座名、お名前、住所、電話番号を明記してください。
◆ 申し込み先
新潟県立歴史博物館 経営企画課
〒940-2035 長岡市関原町1丁目字権現堂2247番2
TEL:0258-47-6130 FAX:0258-47-6136 E-mail:koryu@nbz.or.jp
妙義山城
妙義山城は長野県塩尻市洗馬にある歴史の里資料館の西山に城址があります。
妙義山城地図
県道293号線で、長興寺の北600mくらいに歴史の里資料館(釜井庵)の棒標があり左折します。300mくらいで資料館に着きます。地図にある妙義神社は本丸です。
資料館にある案内図
登り口
釜井庵(三村氏の居館があったと伝えられています。)
説明版
三村氏は上杉氏に内通したと疑わられて誅殺されています。
登り口から墓地を過ぎて、すぐに虎口があります。
その虎口から10分ほどに、堀切に沿った虎口
堀切から北側へ下ると
段曲輪1
段曲輪2
段曲輪3
段曲輪4と竪堀、以下観音堂まで無数に段曲輪が構築されています。
縄張り図は「信濃の山城と館4」宮坂氏は北の麓にある寺を慈眼堂としています。
信濃 三村氏出自
信濃国荒馬郷に本拠を置いた三村氏は、その出自に関して諸説がなされている。伝わる系図によれば、清和源氏頼親の後裔という。すなわち多田満仲の次男頼親の後裔というものである。
『尊卑分脈』の頼親の項をみると、頼親は大和・周防・淡路・信濃などの国司に任ぜられたことが記されている。信濃守に任ぜられたのは『国司表』によれば長保元年(999)とあり、在任中は信濃国洗馬郷に居住した。その後、大和守に任ぜられたが、その在任中に興福寺に訴えられ土佐に流された。赦されて帰洛したのちに再び信濃の洗馬郷に下って、康平七年(1064)同地で死去したという。これが、のちの三村氏と洗馬郷との関わりの始めということになる。
分脈によれば、頼親の九代の孫に仲宗がみえ、その子に親綱とあり、仲宗・親綱の代に鎌倉幕府は滅亡し南北朝の内乱の時代となったが、詳しい動向は定かではない。 武家家伝より
-新潟県立歴史博物館メールニュース-
県立歴史博物館では、現在、秋季企画展「川中島の戦い―上杉謙信と武田信玄―」を開催しています。その記念講演会を10月22日(日)に開催します。
上杉謙信と武田信玄が川中島地方で争った川中島合戦は、華やかな合戦絵巻に彩られ、現在でもその激戦ぶりが喧伝されています。江戸時代以降、この戦いがどのように伝えられてきたのか、草双紙などを研究してこられた石川博先生にご講演いただきます。
◆ 期日 平成29年10月22日(日)
◆ 時間 13:30~15:00
◆ 講師 石川博氏(駿台甲府小学・中学・高等学校指導監)
◆ 会場 新潟県立歴史博物館 講堂
◆ 定員 150名 (要申込)
◆ 料金 無料
◆ 申し込み方法
電話、はがき、ファックスまたはメールで下記までお申し込みください。
講座名、お名前、住所、電話番号を明記してください。
◆ 申し込み先
新潟県立歴史博物館 経営企画課
〒940-2035 長岡市関原町1丁目字権現堂2247番2
TEL:0258-47-6130 FAX:0258-47-6136 E-mail:koryu@nbz.or.jp
妙義山城
妙義山城は長野県塩尻市洗馬にある歴史の里資料館の西山に城址があります。
妙義山城地図
県道293号線で、長興寺の北600mくらいに歴史の里資料館(釜井庵)の棒標があり左折します。300mくらいで資料館に着きます。地図にある妙義神社は本丸です。
資料館にある案内図
登り口
釜井庵(三村氏の居館があったと伝えられています。)
説明版
三村氏は上杉氏に内通したと疑わられて誅殺されています。
登り口から墓地を過ぎて、すぐに虎口があります。
その虎口から10分ほどに、堀切に沿った虎口
堀切から北側へ下ると
段曲輪1
段曲輪2
段曲輪3
段曲輪4と竪堀、以下観音堂まで無数に段曲輪が構築されています。
縄張り図は「信濃の山城と館4」宮坂氏は北の麓にある寺を慈眼堂としています。
信濃 三村氏出自
信濃国荒馬郷に本拠を置いた三村氏は、その出自に関して諸説がなされている。伝わる系図によれば、清和源氏頼親の後裔という。すなわち多田満仲の次男頼親の後裔というものである。
『尊卑分脈』の頼親の項をみると、頼親は大和・周防・淡路・信濃などの国司に任ぜられたことが記されている。信濃守に任ぜられたのは『国司表』によれば長保元年(999)とあり、在任中は信濃国洗馬郷に居住した。その後、大和守に任ぜられたが、その在任中に興福寺に訴えられ土佐に流された。赦されて帰洛したのちに再び信濃の洗馬郷に下って、康平七年(1064)同地で死去したという。これが、のちの三村氏と洗馬郷との関わりの始めということになる。
分脈によれば、頼親の九代の孫に仲宗がみえ、その子に親綱とあり、仲宗・親綱の代に鎌倉幕府は滅亡し南北朝の内乱の時代となったが、詳しい動向は定かではない。 武家家伝より