本丸へ
二段の土塁の関門を越えると、二の丸の先に本丸城壁が見えてきます。
本丸、幅20m奥行き35mくらいの変四角形
縄張り図は「信濃の山城と館」6巻。北は右手、東の観音堂から入って、二の丸、本丸へ入りました。
本丸北西下の堀切、その先西曲輪(仮に)
帰り道、本丸から二の丸を見下ろしています。
一段目の腰曲輪(上から数えて)
二段、三段の腰曲輪と中央虎口
奥が観音堂へ通じています。
城主は埴原田小太郎と伝えられ、惣領家政満の弟で大熊荒城で記述しましたが、文明十五年(1483)正月、大祝継満によって惣領家政満一統を前宮の神殿で謀殺した事件の時に、兄政満とともに殺されている。城址本丸に「埴原田小太郎の碑」が残っているそうですが、以前は裏面に「俗名諏訪小太郎頼之」と読めたと言われているが、現在は読めないそうです。『信濃の山城と館」6巻』
次回 筑北村 竹場城
二段の土塁の関門を越えると、二の丸の先に本丸城壁が見えてきます。
本丸、幅20m奥行き35mくらいの変四角形
縄張り図は「信濃の山城と館」6巻。北は右手、東の観音堂から入って、二の丸、本丸へ入りました。
本丸北西下の堀切、その先西曲輪(仮に)
帰り道、本丸から二の丸を見下ろしています。
一段目の腰曲輪(上から数えて)
二段、三段の腰曲輪と中央虎口
奥が観音堂へ通じています。
城主は埴原田小太郎と伝えられ、惣領家政満の弟で大熊荒城で記述しましたが、文明十五年(1483)正月、大祝継満によって惣領家政満一統を前宮の神殿で謀殺した事件の時に、兄政満とともに殺されている。城址本丸に「埴原田小太郎の碑」が残っているそうですが、以前は裏面に「俗名諏訪小太郎頼之」と読めたと言われているが、現在は読めないそうです。『信濃の山城と館」6巻』
次回 筑北村 竹場城