山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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安坂城⑥

2017-08-20 18:32:06 | 山城ー信州
本丸から南に下ります。


本丸

本丸南側の石垣

本丸南下の曲輪4

曲輪4の西先端部から本丸西大堀切に出ます。
曲輪4を東に歩いて、本丸、二の丸の城壁を見上げています。

石垣を見上げています。

南側城壁の石垣をじっくり見て城を後にしました。

小笠原貞慶と上杉景勝との争い

北信ではこの頃、伯父の小笠原洞雪斎が上杉景勝の後援を受けて木曾氏を追放し深志城を押さえていたが、小笠原旧臣は上杉氏の傀儡であった洞雪斎から離れていたと言われ、貞慶は徳川氏や小笠原旧臣の支援を得て深志城を奪還する。これにより大名として復帰を果たした。その際、長男の小笠原秀政を人質として差し出し、家康の宿老であった石川数正に預けられた。またこの時、深志城を松本城と改名している。
天正11年(1583年)には筑摩郡北部の青柳城、麻績城を上杉氏と争い、天正12年(1584年)には木曾義昌の本領木曽福島城を攻めた。
天正13年(1585年)、突如として数正が人質の秀政を引き連れて豊臣秀吉の元へ出奔すると、貞慶もそれに従って豊臣氏の家臣となった。ただし、その前から貞慶が真田昌幸とともに秀吉と内通していた形跡があり、貞慶の秀吉への内通発覚によってその責任を問われたことが数正出奔の一因になったとする説もある[5]。
天正18年(1590年)、小田原征伐で前田利家軍に従って軍功を挙げたため、秀吉から讃岐半国を与えられた。しかし、九州遠征の際に秀吉の怒りに触れて追放されていた(元讃岐領主の)尾藤知宣を客将として保護していたことが露見したため、秀吉の怒りを買って、所領を全て没収されて改易され、松本の所領は石川数正に与えられた[6]。
その後は子の秀政とともに再び家康の家臣となり、家康の関東入りに従って、下総古河に3万石を与えられた。文禄4年(1595年)に死去。享年50[1]。茨城県古河市の隆岩寺に供養塔がある。ウィキペディアより


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