山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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妙義山城⑤

2017-10-12 11:00:30 | 山城ー信州
南西尾根へ

鉄塔見晴台へ

峰に着きますと、ここも手が入った地形であるようです。大手を土塁で曲げているように見えます。
土橋



見晴台(鉄塔があります)から見た東西の景色

大堀切

尾根を登り

南西の砦の本丸(丘陵地に見えますが)

西下に西曲輪

西曲輪は空堀で囲んでいます。

西曲輪に立っています。

西曲輪の西下には腰曲輪

鉄塔の先・心念堂の北にも砦を構築して警戒していた事が分かります。

次回 本丸北尾根曲輪群

備中三村氏の戦国期

鎌倉後期~戦国期
移住以降長らく、備中三村氏は星田郷や成羽を支配する備中の一豪族に過ぎなかった(国人化していた)が、16世紀前半に三村宗親が分流である石蟹氏などと対立しつつも徐々に勢力を伸ばした。
息子家親の代には毛利氏の後ろ盾を得て備中をほぼ統一し、備前や美作においても部分的に勢力下・支配下におさめ、戦国大名として名を轟かせる。
その後も家親は備前や美作へのさらなる勢力拡大を図るが、1566年には鉄砲に精通した阿波出身の遠藤兄弟を利用した宇喜多直家によって暗殺されてしまう。
家親の死後、宇喜多氏との兼ね合いもあって、庄氏一部の叛乱を許すなど一時三村氏は衰退するも、勢力を盛り返した。しかし、三村氏不倶戴天の敵である宇喜多直家と毛利氏が(吉川元春の強固な反対を押し退けて)安国寺恵瓊・小早川隆景の仲立ちによって同盟関係を結んだことに端を発する1575年の備中兵乱において、毛利氏に攻めに攻められて(宇喜多氏は備中兵乱最後の山場である備前常山城攻めなどで、辛うじて僅かに出兵したのみであった)、家親の子・元親は自害。戦国大名としての三村氏は滅亡した。
元親に近い血筋の者は毛利方についた三村親成などの係累を除き、因幡・阿波・讃岐等各地に落ち延びていった。二松学舎大学創立者で皇室への出入りのあった漢学者三島中洲(毅)を初めとして、三村氏の子孫を称する家系は備中地域などに少なくない。 weblio辞書より





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