山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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狐落城④

2017-05-11 19:22:06 | 山城ー信州
狐落城本丸から南西尾根を登ってゆくと三水城です。

本丸南西曲輪から尾根を下ってゆき

第一堀切

南西第一曲輪

第二堀切

南西第二曲輪

第三堀切

南西第三曲輪

南西尾根を進み

第四堀切

南西尾根が下って、左手に

竪堀

縄張り図「信濃の山城と館2」狐落城主郭部
鞍部から西方に出浦城が見えます。(後日紹介します。)

ここを登れば三水城ですが次回とします。

村上氏の勢力拡大
坂木郷を本拠とした村上氏は、同郷に近接した小県郡海野荘の海野氏を攻めてその所領を奪うなど、戦国乱世を目前に控えて武力による領域支配を押し進めていった。
 政清のあとは政国が継いだが、父政清が海野領に侵攻したとき、政国も軍に加わり海野氏幸を敗死させたことが『諏訪御符礼之古書』などに記されている。政国の子顕国の事蹟については史料を欠いて、不明な点が多いが、おそらく坂木郷を根拠地として埴科郡制圧を進めるとともに、村上氏勢力の整備と拡充をはかったものであろう。
 この顕国の子として戦国村上氏の家督を継承したのが義清であった。義清は坂木郡内の葛尾城を居城にして領土拡大を画策し、天文十年(1541)、甲斐の武田信虎と謀って海野棟綱を攻め、海野一族を上州に追い払った。この義清の代にいたって村上氏は、北信濃四郡の強豪としてその武威をおおいに高めた。その後、甲斐の信虎はクーデタによって駿河に逐われ、武田氏の家督を晴信が継ぐと、村上氏は小笠原・諏訪氏と結んで武田晴信に先制攻撃をかけたが武田勢の攻勢によって退けられた。以後、晴信は信濃侵攻を急ピッチに推進、信濃の諸豪は晴信の攻勢にさらされることになる。
 天文十一年(1542)七月、諏訪の大祝諏訪頼重が攻め滅ぼされ、晴信の部将板垣信形が諏訪郡代となって、諏訪を治めた。これに対し諏訪氏の一族高遠氏が諏訪回復を目指して、諏訪に攻め込んだが武田軍に敗れ去った。天文十四年になると、晴信は府中および伊那に進出し藤沢氏の拠る福与城を攻撃した。武家家伝より




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