主郭部へ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/3c/30a7896fe59268730b89bfd5ff112abb.jpg)
大手通路、右手に土塁を残し、左側を通路としています。侵入者は土塁側は柵で囲われていて阻止され、、通路だけ出はいりができるように工作していると推測します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/bf/18fefcd67c41fe00e4473994349ec402.jpg)
主要曲輪内に入り、曲輪5の城壁が視界を妨げています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/5a/095b1f6a0090091827e0611adb5dc95a.jpg)
視界を妨げていた、曲輪5を見下ろしています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/dc/fb7ae12408ff0f3395d8f13c25298c19.jpg)
帯曲輪、この上に三の丸・二の丸。本丸を囲んでいます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/d9/b3b1f5d29526b27666f99c9dfa44df99.jpg)
俯瞰図は「信濃の山城と館6」諏訪・下伊那編より
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/5e/671c834f45595d2794d2dc33ee9401e5.jpg)
帯曲輪の北側斜面、武者走りが配されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/68/bba68932bf8700459690fa09154b3ed8.jpg)
帯曲輪西側下の大堀切
三の丸から、東北下の帯曲輪から登ってきた曲輪5を見ています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/65/61e7d140c25f1dbde2a574dae8999cc3.jpg)
三の丸に入り、二の丸の段差、奥には本丸城壁
塩尻峠の戦い
7月10日、花岡氏や矢島満清ら武田家に与していた諏訪西方衆を寝返らせた[7]。長時は諏訪郡代・板垣信方を失って動揺の激しい上諏訪に押し寄せた[8]。
これを知り、晴信は7月11日に甲府を出発し、18日までは大井森に滞陣したまま軍を動かそうとはしなかった[9]。これは相手を油断させるために意図的に遅延行軍したものと思われる[10]。
しかし兵力的にも戦況でも優位にあった小笠原軍にも弱点があった。長時は晴信に対抗するためなりふり構わず兵力をかき集めたので、その軍は寄せ集めで結束力など乏しく、むしろ対立さえあった。そのため、小笠原軍では長時の舅である仁科盛能が作戦方針をめぐって長時と対立して軍を率いて退去し、山家氏や三村氏などの武将らは晴信の調略で内応したとされるが、山家・三村氏はその後も小笠原氏とともに筑摩郡で武田氏と対峙しているので事実とはいえない[11]。
7月18日、晴信は軍を率いて上原城に入る[1]。翌日未明、晴信はこれまで鈍重な進軍を続けていた晴信は、隠密裏に軍を移動させて長時のいる塩尻峠に午前6時頃に急襲を開始[12][1]。武田の遅延行動に油断をしていた小笠原方は、武具を解いて休んでおり、軍勢の過半数はまだ就寝中であったため、武田軍の行動に全く対応できなかった[13][1]。朝懸けの奇襲を受けた小笠原軍は千人ほどが戦死して総崩れとなった ウィキペディアより
塩尻峠の戦いで(天文十年)寝返った西方衆の中に、千野靱負尉がいて、天文十七年、西方衆が武田氏へ反乱を起こしたときに、これに加わった矢島氏は真志野城から追放されて、天文十七年の上田原の戦いで軍功を挙げた千野靱負尉が真志野城を任されている。
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大手通路、右手に土塁を残し、左側を通路としています。侵入者は土塁側は柵で囲われていて阻止され、、通路だけ出はいりができるように工作していると推測します。
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主要曲輪内に入り、曲輪5の城壁が視界を妨げています。
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視界を妨げていた、曲輪5を見下ろしています。
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帯曲輪、この上に三の丸・二の丸。本丸を囲んでいます。
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俯瞰図は「信濃の山城と館6」諏訪・下伊那編より
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帯曲輪の北側斜面、武者走りが配されています。
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帯曲輪西側下の大堀切
三の丸から、東北下の帯曲輪から登ってきた曲輪5を見ています。
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三の丸に入り、二の丸の段差、奥には本丸城壁
塩尻峠の戦い
7月10日、花岡氏や矢島満清ら武田家に与していた諏訪西方衆を寝返らせた[7]。長時は諏訪郡代・板垣信方を失って動揺の激しい上諏訪に押し寄せた[8]。
これを知り、晴信は7月11日に甲府を出発し、18日までは大井森に滞陣したまま軍を動かそうとはしなかった[9]。これは相手を油断させるために意図的に遅延行軍したものと思われる[10]。
しかし兵力的にも戦況でも優位にあった小笠原軍にも弱点があった。長時は晴信に対抗するためなりふり構わず兵力をかき集めたので、その軍は寄せ集めで結束力など乏しく、むしろ対立さえあった。そのため、小笠原軍では長時の舅である仁科盛能が作戦方針をめぐって長時と対立して軍を率いて退去し、山家氏や三村氏などの武将らは晴信の調略で内応したとされるが、山家・三村氏はその後も小笠原氏とともに筑摩郡で武田氏と対峙しているので事実とはいえない[11]。
7月18日、晴信は軍を率いて上原城に入る[1]。翌日未明、晴信はこれまで鈍重な進軍を続けていた晴信は、隠密裏に軍を移動させて長時のいる塩尻峠に午前6時頃に急襲を開始[12][1]。武田の遅延行動に油断をしていた小笠原方は、武具を解いて休んでおり、軍勢の過半数はまだ就寝中であったため、武田軍の行動に全く対応できなかった[13][1]。朝懸けの奇襲を受けた小笠原軍は千人ほどが戦死して総崩れとなった ウィキペディアより
塩尻峠の戦いで(天文十年)寝返った西方衆の中に、千野靱負尉がいて、天文十七年、西方衆が武田氏へ反乱を起こしたときに、これに加わった矢島氏は真志野城から追放されて、天文十七年の上田原の戦いで軍功を挙げた千野靱負尉が真志野城を任されている。