山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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埴原城③

2017-06-13 11:07:14 | 山城ー信州
山城は何度も訪問する価値はあります。今回のように木々が伐採され、未踏査の尾根をすべて歩くことができました。松本市は他にも整備されている山城があるかもしれません。

曲輪3へ

西尾根の最大の障壁、ここからは容易に進ませないぞという縄張りです。

宮坂氏の縄張り図に名がないため、西曲輪とします。

西曲輪は二段構えです。

堀切

東から見下ろしています。これを左下に下れば蓮華寺になります。

曲輪A

西尾根を見上げています。

堀切

登ってきた尾根を見下ろしています。

三の丸城壁

三の丸西下曲輪

松本市教育委員会ではここを二の丸としていますが、宮坂氏は曲輪3としています。私も同感です。

西尾根から曲輪3まで紹介してきました。縄張り図は「信濃の山城と館4」より

次回 未踏査だった北尾根へ

室町時代の小笠原氏
小笠原貞宗は鎌倉幕府に反旗を翻した足利尊氏に従い鎌倉の戦いに出陣し、建武元年(1334年)、建武政権より信濃守および信濃守護に任じられ、筑摩郡に井川館を築いた。
室町時代にも小笠原一族は幕府の奉公衆等となって活躍し、南北朝時代には小笠原政長(貞宗の子)は北朝に属したものの伊那谷は北条時行の拠点であり、後に諏訪氏や仁科氏等の南朝の拠点となった。対して貞宗の跡を継いだ小笠原長基は若年であったため、代わりに上杉氏や斯波氏が信濃守護を任じられた。長基は正平10年/文和4年(1355年)4月の桔梗ヶ原の戦いで南朝の宗良親王を破り吉野へ駆逐するなど戦功を挙げ、信濃守護に任じられた。
しかし、応永7年(1400年)に足利義満に仕えばさらであった小笠原長秀(長基の次男)が信濃国守護に任じられて入国すると、村上氏、仁科氏、諏訪氏、滋野氏、高梨氏、井上氏など、信濃国人の大半が反発して大塔合戦を起こし、これに大敗した長秀は京都に逐電し守護職を罷免された。信濃守護職は斯波氏を経て室町幕府の料国(直接統治)とされたが、信濃小笠原氏の家督を継いだ長秀の弟の小笠原政康が応永32年(1425年)に信濃守護職に任命されてからは信濃小笠原氏の守護職の地位が安定化した。ウィキペディアより




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