土橋が続く限り歩き進みます。
曲輪3から細尾根を歩いてゆくと、峰になり
曲輪5(仮に)宮佐氏の縄張り図にはありません。
明らかに土橋です。削り落として細くしています。
また峰が現れます。ここから先は奥の城と考えるべきと思います。
峰を越えると、土橋を形成しつつ、この東下には
奥の城曲輪3となります。(仮に)
曲輪3の脇の土橋を登ると奥の城曲輪2
曲輪2から尾根を登ってゆくと虎口が見えてきます。
奥の城虎口を見下ろしています。
奥の城の本丸
本丸から南細尾根
鹿谷城も城域には山を迂回した搦め手がありましたが、この黒岩城も奥の山裾を迂回して搦め手となっています。
宮坂氏の著書「信濃の山城と館」2巻 更埴・長野編でははっきりした史料がないそうです。鹿谷城が高坂氏の支配下にあったようで、この黒岩城も高坂氏の山城と考えられるとしています。
曲輪3から細尾根を歩いてゆくと、峰になり
曲輪5(仮に)宮佐氏の縄張り図にはありません。
明らかに土橋です。削り落として細くしています。
また峰が現れます。ここから先は奥の城と考えるべきと思います。
峰を越えると、土橋を形成しつつ、この東下には
奥の城曲輪3となります。(仮に)
曲輪3の脇の土橋を登ると奥の城曲輪2
曲輪2から尾根を登ってゆくと虎口が見えてきます。
奥の城虎口を見下ろしています。
奥の城の本丸
本丸から南細尾根
鹿谷城も城域には山を迂回した搦め手がありましたが、この黒岩城も奥の山裾を迂回して搦め手となっています。
宮坂氏の著書「信濃の山城と館」2巻 更埴・長野編でははっきりした史料がないそうです。鹿谷城が高坂氏の支配下にあったようで、この黒岩城も高坂氏の山城と考えられるとしています。