山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

氏族の追跡(小幡氏)⑥

2016-03-07 19:34:16 | 氏族の追跡
奥平氏縁故の地、上野へ(小幡町史より)

かくして、伝州は小幡信秀(信貞の嫡男)を匿った。七月五日には北条氏も秀吉に下った。十三日秀吉は小田原城へ入城している。小田原に加勢に行った信貞は十月十八日に死んだ。(諸説あり、根羽砦の記事に別所温泉にある安楽寺に小幡信貞の墓があり、小田原城の落城の後、上田の真田氏を頼って逃れ、真田氏ゆかりの安楽寺にて余生を送ったようです。
五畿七道悉く秀吉の手に入って、天下統一の事業は成り、宮崎の城(現在西中)詰め城は中学校の西すぐに神成城と成ります。奥平美作が拝領してからの話に、美作が引田へ猪狩りに出て向陽寺へ立ち寄った時、伝州は信秀に茶を運ばせ、美作の問いに答えて、信秀が信貞の嫡男であることを打ち明けて推挙を請うた。美作から徳川秀忠にとりなしがあって、西上州野殿(安中市)へ一千石で封ぜられた。奥平氏は一説に小幡氏とは祖を同じくし、初代秩父高行の孫、氏行の子吉行をその祖としている。
弘治二年(1556)奥平貞能の長男として三河国作手に生まれた信昌は元亀元年(1570)姉川の合戦に徳川の幕下にある父に従って初陣を果たした。中津藩史によると、信昌は剣法を奥山流奥平孫次郎公重(上泉伊勢守秀綱の高弟休賀斎)に学んだとある。家康は信昌の武功を賞し長篠城を与えた。武田勝頼はこれを絶好の機会と、天正三年(1575)甲信上野の兵一万五千の大軍を率い長篠城の攻撃に出た。信昌は時に二十歳であった。武田の大軍に抗して二十日間も孤立無援の小城を守り最後まで屈しなかった比類ない功を賞し、家康は前に織田信長から贈られた大般若長光の刀を信昌に与えた。また家康が愛する娘亀姫を信昌の妻に与えた。天正四年家康から土地を与えられ新城(三河国設楽郡平井村)に築城し、この後に小牧山の戦い、天正十八年小田原の陣に出征し武勲を立てた。
 信昌は家康が江戸城に入城して関東を治める時に上野国宮崎に封ぜられ、甘楽・多胡・緑野等諸郡のうち三万石を与えられた。信昌が小幡領宮崎城に封ぜられたのは発祥の地のゆかりがあり、甘楽郡の中心地であるとともに、信濃へ通路を押さえる重要な地点であったからであろう。信昌は老臣に小幡城を守らせたといわれる。天正十八年信昌夫人亀姫は仁隻寺に寺領三千匹の地を寄進した。慶長五年(1600)信昌は新設された京都所司代の要職に任ぜられ、関ヶ原の戦いを処理した。(石田三成・小西行長・安国寺恵瓊らを断罪)翌年職を辞し、同時に美濃国加納城に封ぜられ、三男忠政とともに大垣領等八万石と上野国吉井二万石とを合わせて十万石の大名となった。老後を加納城で送り、元和元年(1615)死去した。行年六十一歳

終り

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。