溝(曲輪4)から南支尾根へ
溝に向かう麓にある説明板
溝の西側
東側は一段低くなっている。南側領域を守る重要な曲輪であると思われます。
溝の南下第一堀切
近くに寄って見ています。
南小曲輪から第一堀切を見ています。
堀切は竪堀と繋いでいます。
南支尾根を登って
腰曲輪で城域としています。
溝からここを渡って主郭部へ
曲輪3方面を見上げています。
次回 溝から南西尾根へ
説明版にある小笠原貞宗について
正応5年、信濃国松尾(現・長野県飯田市)に生まれる[2]。北条貞時から偏諱(「貞」の字)を受けている[注釈 1]ことから明らかであるように、当初は鎌倉幕府に仕えており、元弘元年(1331年)からの元弘の乱では新田義貞に従い足利尊氏(高氏)らとともに後醍醐天皇の討幕運動を鎮圧に加わり、北条貞直に属して楠木正成の赤坂城を攻めた(『光明寺残篇』)。しかし高氏が鎌倉幕府に反旗を翻すとこれに従い、鎌倉の戦いに参加する[2]。建武元年、この功績により信濃国の守護(信濃守守護)に任ぜられた[2][4]。
中先代の乱では北条残党により国衙を襲撃されて国司を殺され、鎌倉進軍を阻止できなかったが、鎮圧後、尊氏が後醍醐天皇から離反するとこれに従った[2]乱における国衙焼失後、後醍醐天皇の任命した後任の国司堀川光継を筑摩郡浅間宿に出迎えている。建武3年/延元元年(1336年)には足利方の入京により後醍醐天皇が比叡山へ逃れる。この際、貞宗は近江坂本に滞陣し、新田義貞の弟脇屋義助を破り(『梅松論』)、後醍醐方の兵糧を絶つ目的で琵琶湖の湖上封鎖を行った[2]。
その後も一貫して北朝側の武将として金ヶ崎の戦い、青野原の戦いなど各地を転戦し、暦応3年/興国元年(1340年)には、遠江から信濃南朝方の拠点である伊那谷に入った北条時行を大徳王寺城に破った。康永元年/興国3年(1342年)には高師冬の救援要請を受けて常陸に北畠親房を攻めた。
建武2年9月には安曇郡住吉荘を、正平2年/貞和3年4月には近府春近領を与えられ、信濃府中に進出する足掛かりを得た。正平2年/貞和3年5月26日(1347年7月5日)[1]、京都で死去[2]。56歳没[1]。子の政長が家督を相続した。 ウィキペディアより
溝に向かう麓にある説明板
溝の西側
東側は一段低くなっている。南側領域を守る重要な曲輪であると思われます。
溝の南下第一堀切
近くに寄って見ています。
南小曲輪から第一堀切を見ています。
堀切は竪堀と繋いでいます。
南支尾根を登って
腰曲輪で城域としています。
溝からここを渡って主郭部へ
曲輪3方面を見上げています。
次回 溝から南西尾根へ
説明版にある小笠原貞宗について
正応5年、信濃国松尾(現・長野県飯田市)に生まれる[2]。北条貞時から偏諱(「貞」の字)を受けている[注釈 1]ことから明らかであるように、当初は鎌倉幕府に仕えており、元弘元年(1331年)からの元弘の乱では新田義貞に従い足利尊氏(高氏)らとともに後醍醐天皇の討幕運動を鎮圧に加わり、北条貞直に属して楠木正成の赤坂城を攻めた(『光明寺残篇』)。しかし高氏が鎌倉幕府に反旗を翻すとこれに従い、鎌倉の戦いに参加する[2]。建武元年、この功績により信濃国の守護(信濃守守護)に任ぜられた[2][4]。
中先代の乱では北条残党により国衙を襲撃されて国司を殺され、鎌倉進軍を阻止できなかったが、鎮圧後、尊氏が後醍醐天皇から離反するとこれに従った[2]乱における国衙焼失後、後醍醐天皇の任命した後任の国司堀川光継を筑摩郡浅間宿に出迎えている。建武3年/延元元年(1336年)には足利方の入京により後醍醐天皇が比叡山へ逃れる。この際、貞宗は近江坂本に滞陣し、新田義貞の弟脇屋義助を破り(『梅松論』)、後醍醐方の兵糧を絶つ目的で琵琶湖の湖上封鎖を行った[2]。
その後も一貫して北朝側の武将として金ヶ崎の戦い、青野原の戦いなど各地を転戦し、暦応3年/興国元年(1340年)には、遠江から信濃南朝方の拠点である伊那谷に入った北条時行を大徳王寺城に破った。康永元年/興国3年(1342年)には高師冬の救援要請を受けて常陸に北畠親房を攻めた。
建武2年9月には安曇郡住吉荘を、正平2年/貞和3年4月には近府春近領を与えられ、信濃府中に進出する足掛かりを得た。正平2年/貞和3年5月26日(1347年7月5日)[1]、京都で死去[2]。56歳没[1]。子の政長が家督を相続した。 ウィキペディアより