山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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真篠城⑤

2015-11-15 20:29:51 | 山城ー甲斐
南側遺構へ


前回の記事の縄張り図のように、曲輪6に続いて西に曲輪5がつきます。

曲輪5から南尾根が接続されて土橋を構築しています。

大空堀の先に南出城

逆から曲輪5方面を見返しています。

細い南尾根を登ってゆくと

宮坂氏の縄張り図に記号が振ってないので南曲輪とします。左側は削り落としたように一段低くなっています。

支尾根が東に下っていますが、これに沿って畝状阻塞が何段も構築されています。

堀切ではなくて下段の畝状から上に向かいよく見てください、数段の畝状阻塞が確認できます。

南から畝状阻塞を見ています。

南尾根を下って堀切

南尾根の途中から東支尾根が下っています。二つの腰曲輪が確認できます。

宮坂氏はこの真篠城は河路道の国境護るための一級の山城と規定していますが、誰の居城とは明示されていません。真篠城記事の①で南部町教育委員会の説明板では原大隅守の居城と書かれております。

 原大隅守の墓
「甲陽軍艦」では、永禄4年(1561)9月10日の第4回川中島の戦いで、八幡原の信玄本陣に単騎乗りこんだ上杉謙信に向け、鑓を繰りだし、信玄の窮地を救った人物として書かれている。 同書によると、原大隅守は横目衆の一人で、中間頭として描かれ、一人で三十人宛ての寄子を持ち、大手の番、甲州口方面の奉行を勤めたとされる。(本寺の位牌は原大偶守となっています。)
    ―「川中島の戦い」ゆかりの地整備保存会 現地案内文を掲載―
また、横目衆として信玄から賜った感状が18通もあったとされ、かなり武勇に秀でた武将であったと推察される。

原 虎吉(はら とらよし、生没年不詳)、通称半右衛門。
※武田家滅亡後は徳川家康に召抱えられたとの説があるが不明。没年も天正14年(1586)3月とも天正12年(1584)3月ともいわれ定かでない。
ブログ 「川中島合戦 史跡巡り」 より引用


次回 大月市 猿橋の城山

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