北尾根へ
本丸から西に臨む、子檀嶺岳
堀切越しに本丸北城壁
瘤があって、北曲輪が続きます。
また瘤状の後に堀切、さらに手前に堀切
北尾根が伸びています。
縄張り図は「信濃の山城と館」3巻
黒丸城の北尾根から林道へ通じています。
黒丸城は「宝永郡絵図」には朝倉但馬守の城と記述されているそうです。戦国期には隣村に浦野村があり、現に大法寺の林道から浦野村へ通じています。朝倉但馬守と浦野氏との関係は不明ですが、勢力圏として黒丸城と飯綱城は浦野氏の支配下にあったと私は推定しています。
黒丸城から100mほどに、林道がUの字のカーブに差し掛かったところに土盛りがあります。この脇から登り道があり飯綱山頂932m40分ほどの道程です。
飯綱城本丸南城壁
飯綱城本丸
曲輪2
曲輪4と仕切りがあって曲輪3
曲輪5
縄張り図は「信濃の山城と館」3巻
縄張りの西にこのような広大な平地が備えてあります。宮坂氏は城内でないと判断されているようですが、縄張りとこの西側の削平地は堀もなく区切りもありません。これほど整地されて居れば手が加えられたと見てよいと思われます。私見ですが、この山城は武士の溜まり基地でなく地域住民の戦闘時の避難場所の城ではないかと考えます。
次回 二場城
本丸から西に臨む、子檀嶺岳
堀切越しに本丸北城壁
瘤があって、北曲輪が続きます。
また瘤状の後に堀切、さらに手前に堀切
北尾根が伸びています。
縄張り図は「信濃の山城と館」3巻
黒丸城の北尾根から林道へ通じています。
黒丸城は「宝永郡絵図」には朝倉但馬守の城と記述されているそうです。戦国期には隣村に浦野村があり、現に大法寺の林道から浦野村へ通じています。朝倉但馬守と浦野氏との関係は不明ですが、勢力圏として黒丸城と飯綱城は浦野氏の支配下にあったと私は推定しています。
黒丸城から100mほどに、林道がUの字のカーブに差し掛かったところに土盛りがあります。この脇から登り道があり飯綱山頂932m40分ほどの道程です。
飯綱城本丸南城壁
飯綱城本丸
曲輪2
曲輪4と仕切りがあって曲輪3
曲輪5
縄張り図は「信濃の山城と館」3巻
縄張りの西にこのような広大な平地が備えてあります。宮坂氏は城内でないと判断されているようですが、縄張りとこの西側の削平地は堀もなく区切りもありません。これほど整地されて居れば手が加えられたと見てよいと思われます。私見ですが、この山城は武士の溜まり基地でなく地域住民の戦闘時の避難場所の城ではないかと考えます。
次回 二場城