山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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狐落城②

2017-05-09 19:53:19 | 山城ー信州
狐落城は宮坂氏の縄張り図では大きく分けて二つになります。


北尾根第二虎口

北尾根第二曲輪、登ってすぐに第一虎口があり、連続してこの虎口が続いています。最初に訪れたときは、全く気にも留めずに登っていました。

観月殿から登っての縄張り図「信濃の山城と館2」宮坂武男氏著

第二曲輪から一段上がって曲輪8

北尾根第三虎口

第三虎口を抜けると、山の樹木が変わり

第四虎口

尾根が続き

縄張り図の曲輪6

曲輪6には瘤を迂回して尾根を進みます。瘤には祠

城壁が立ちはだかり

曲輪5

土橋となって、この先に狐落城本丸が待っていますが次回とします。

村上氏の台頭
村上氏が歴史上に大きな足跡を残したのは、信泰の子という村上義光(よしてる)と義隆父子の活躍であった。元弘の乱に義光は子の義隆とともに護良親王に従った。元弘元年(1331)の笠置城陥落によって、親王は十津川を経て高野山に逃れたが、その翌々年、足利氏の攻撃を受けて吉野が落ちたとき、義光は親王の身代わりとなって戦死した。子の義隆は親王を守って吉野を脱出したが、義隆も親王の身代わりとなって戦死し、親王は義光・義隆父子の忠死によって虎口を脱出することができたのである。これは『太平記』に記されたところで、歴史的事実としては疑われる節もあるが、村上氏が大塔宮護良親王に尽したことは間違いないことである。
 そして、『尊卑分脈』の信泰の子義日を"よしてる"と呼んでいるが、そうなると大塔宮に尽くして討死した義光と義日とは同一人物になると考えられる。武家家伝より

狐落城記事1の村上大国魂神社には、この義光・義隆を祀っています。


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