古本丸から本丸へ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/6a/adc498a8967a6e8fa5fbb4f42d4b09fa.jpg)
中城かっら古本丸の間の空堀
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/c8/57e8997d3f9fdd338bc344fe705018b0.jpg)
古本丸
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二の丸(近世では本丸とされている。)への土橋
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古本丸を南から見ています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/ed/297e8a31bc226d6415375275b76e94cf.jpg)
土橋から北側をみています。
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二の丸(近世では本丸としていた。)
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説明版
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/15/23628944d5339b52a8e90cdca4a6e01e.jpg)
二の丸を南から見ています。北奥に祭壇?
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二の丸大手
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吹貫門
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常磐曲輪へ
次回 三の丸へ
那須氏について
鎌倉幕府成立後は御家人となり、室町時代には最盛期を迎え、結城氏や佐竹氏と並んで、関東八屋形のひとつに数えられた。しかし15世紀前半に上那須家と下那須家の二つに分裂して衰退したとされる[注釈 3]。その後上那須家は室町幕府を、下那須家は鎌倉公方・古河公方を頼って勢力争いを繰り返すことになる。永正11年(1514年)、上那須家が内紛により滅亡し、下那須家の那須資房が那須氏を統一するが、その後は宇都宮氏や佐竹氏との抗争に明け暮れる。天正18年(1590年)、那須資晴が豊臣秀吉の小田原征伐に遅参したため所領を没収されたが家臣・大田原晴清の陳謝で資晴の子・那須資景に5,000石を宛てがわれ、かろうじて改易は免れた。
関ヶ原の戦いでは東軍に属し、江戸時代には下野那須藩1万4,000石の大名となる。3代藩主那須資祗の時、2万石に加増され同下野国烏山藩に転封。しかしその養子那須資徳がお家騒動(幕法違反)により改易され、以後1,000石の交代寄合として那須資穀の代で明治維新を迎えた。明治に入り養子縁組で関係があった津軽氏を頼って弘前に移住した。
第二次世界大戦後、那須氏は農地改革により財産である小作地の多くを失って没落、この時期に36代当主の那須隆が昭和24年に起きた弘前大学教授夫人殺人事件の被告人となり有罪が確定したが、服役後に真犯人が判明したことにより再審請求を経て無罪を勝ち取り、冤罪が証明された。事件発生から再審無罪確定まで約30年を要しており、その間那須氏は代々の支援者の殆ど全てを失った上に、助力を申し出る詐欺師にも度々翻弄され、文字通り廃絶寸前まで追い込まれたが、「自分で自分に強くなればそれでいい」との一心で那須隆は出所後も弘前へ留まり続け[5]、僅かに残された那須氏血縁者の支えにも助けられた事により、新たな職や家族にも巡り合い生活の安定を取り戻し、戦国期以来最大の家名断絶の危機を免れている[6]。那須隆は2004年(平成16年)に、那須氏ゆかりの地として知られる栃木県大田原市に道の駅「那須与一の郷」がオープンした[7]際、戦後の困窮と40年に渡る裁判闘争中の散逸を免れた家宝など701点を大田原市へ寄託し[7][注釈 4]、2007年(平成19年)10月に「那須与一伝承館」が開館すると、その名誉館長に就任している[7]。2008年(平成20年)1月24日に那須隆は84歳で逝去し[7]、2016年現在は那須正美が37代当主を務めている。 ウィキペディアより
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中城かっら古本丸の間の空堀
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古本丸
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二の丸(近世では本丸とされている。)への土橋
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古本丸を南から見ています。
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土橋から北側をみています。
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二の丸(近世では本丸としていた。)
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説明版
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二の丸を南から見ています。北奥に祭壇?
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二の丸大手
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吹貫門
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常磐曲輪へ
次回 三の丸へ
那須氏について
鎌倉幕府成立後は御家人となり、室町時代には最盛期を迎え、結城氏や佐竹氏と並んで、関東八屋形のひとつに数えられた。しかし15世紀前半に上那須家と下那須家の二つに分裂して衰退したとされる[注釈 3]。その後上那須家は室町幕府を、下那須家は鎌倉公方・古河公方を頼って勢力争いを繰り返すことになる。永正11年(1514年)、上那須家が内紛により滅亡し、下那須家の那須資房が那須氏を統一するが、その後は宇都宮氏や佐竹氏との抗争に明け暮れる。天正18年(1590年)、那須資晴が豊臣秀吉の小田原征伐に遅参したため所領を没収されたが家臣・大田原晴清の陳謝で資晴の子・那須資景に5,000石を宛てがわれ、かろうじて改易は免れた。
関ヶ原の戦いでは東軍に属し、江戸時代には下野那須藩1万4,000石の大名となる。3代藩主那須資祗の時、2万石に加増され同下野国烏山藩に転封。しかしその養子那須資徳がお家騒動(幕法違反)により改易され、以後1,000石の交代寄合として那須資穀の代で明治維新を迎えた。明治に入り養子縁組で関係があった津軽氏を頼って弘前に移住した。
第二次世界大戦後、那須氏は農地改革により財産である小作地の多くを失って没落、この時期に36代当主の那須隆が昭和24年に起きた弘前大学教授夫人殺人事件の被告人となり有罪が確定したが、服役後に真犯人が判明したことにより再審請求を経て無罪を勝ち取り、冤罪が証明された。事件発生から再審無罪確定まで約30年を要しており、その間那須氏は代々の支援者の殆ど全てを失った上に、助力を申し出る詐欺師にも度々翻弄され、文字通り廃絶寸前まで追い込まれたが、「自分で自分に強くなればそれでいい」との一心で那須隆は出所後も弘前へ留まり続け[5]、僅かに残された那須氏血縁者の支えにも助けられた事により、新たな職や家族にも巡り合い生活の安定を取り戻し、戦国期以来最大の家名断絶の危機を免れている[6]。那須隆は2004年(平成16年)に、那須氏ゆかりの地として知られる栃木県大田原市に道の駅「那須与一の郷」がオープンした[7]際、戦後の困窮と40年に渡る裁判闘争中の散逸を免れた家宝など701点を大田原市へ寄託し[7][注釈 4]、2007年(平成19年)10月に「那須与一伝承館」が開館すると、その名誉館長に就任している[7]。2008年(平成20年)1月24日に那須隆は84歳で逝去し[7]、2016年現在は那須正美が37代当主を務めている。 ウィキペディアより