山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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大胡城(上泉伊勢守に関して)

2017-07-26 19:27:12 | 山城ー上州
上泉伊勢守は長野業政に仕え、嫡子業盛の代となって武田信玄による箕輪城攻撃によって落城してしまいますが、剣においても、人物においても優れた人材であることから、信玄から仕官するよう勧められたが、断り新陰流の普及のため全国への行脚を行ったということが伝えられています。

上泉城の記事にある地図に自治会館がありますが、この敷地内に伊勢守の銅像があります。

銅像の北奥に上泉郷倉があり、ここが本丸とされています。

大胡城と上泉伊勢守との関係
上野国赤城山麓(前橋市上泉町)の大胡城に拠った藤原秀郷流の大胡氏の一族とみられ[4]、大胡城の西南2里の所にある桂萱郷・上泉に住んだ上泉氏の出身。上泉城主であるとともに、兵法家として陰流、神道流、念流などの諸流派を学び、その奥源を究め、特に陰流から「奇妙を抽出して[5]」新陰流を大成した。
信綱は箕輪城の長野氏に仕えた。長野氏滅亡後、長野氏旧臣を取り立てた武田信玄には仕えず、落城後、新陰流を普及させるため神後宗治、疋田景兼らの高弟と共に諸国流浪の旅に出たと伝わる。
嫡男は秀胤で、その子泰綱の子孫は米沢藩士として存続したと伝える[6]。
剣聖と謳われ、袋竹刀を発明したとも伝わる(『桂萱村誌』)。多くの流派の祖とされ、様々な伝承が各流派に伝わる。 一方子孫と伝える上泉氏[7]も独自の家伝を持っている(後述)。ウィキペディアより


これらの伝説を裏付ける文書が遺されています。
その他の古文書
長野氏の軍制を記した「上野国群馬郡箕輪城主長野信濃守在原業政家臣録(永禄元戊午年正月廿九日改軍評定到着帳)」(『箕輪町誌』収録)には、勢多郡上泉の住人の「上泉伊勢守時則」が下柴砦の主[1]としてみえる。これを『桂萱村誌』(桂萱地区自治会連合会桂萱村誌刊行委員会、2006年)は諱が違うものの信綱が長野氏に仕えたのは間違いないとする。
上泉伊勢守が門弟・丸目蔵人佐とともに将軍足利義輝に兵法を披露し、それに対する義輝からの感状が、熊本県の丸目家に所蔵される。永禄7年(1564年)のものと言われるが、年次の記載は無く実際のところは不詳。少なくとも永禄8年5月19日(1565年)の義輝討死以前と推測される。ただし、感状自体の真偽について考証を要すると指摘されている。[2]
永禄8年(1565年)4月、柳生宗厳に与えた印可状(現・柳生延春所蔵)が存在している。
永禄8年8月付で、宝蔵院胤栄への印可状(現・柳生宗久所蔵)が伝来する[2]
丸目蔵人佐に対し、永禄10年(1567年)2月に与えた目録[2]と、同年5月に与えた印可状[3]が残る。
これらの印可状・目録の中で信綱は「上泉伊勢守藤原信綱」と記されている。ウィキペディアより


大胡城(伊勢守は大胡氏の一族で大胡城主ではありませんでした。)
大胡城地図
城好きな方は大胡城へは一度は訪問されたでしょうが、北にある大胡神社に尋ねたことがあるでしょうか、本殿裏に曲輪と土塁が確認でき、この大胡神社を守るかのような、箕輪城並の大空堀が残っています。機会があれば訪れてみてください。

地方道3号線で大胡地区に入り、信号橋西詰を北に向かい200mくらいで、この入り口があります。(案内板が出ています。)

二の丸は駐車場となっていまして、南、西に本丸を囲んでいます。

説明版

二の丸の東側にある桝形虎口

桝方虎口を東から見ています。

本丸南城壁

本丸西側

本丸北側

次回 大胡神社の遺構

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