山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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妙義山城③

2017-10-10 19:19:06 | 山城ー信州
本丸から北西尾根へ


本丸、妙義神社。歴史の里資料館の館長の話では、この地域で火災が多く、火除けの神様である妙義神社を(群馬県の富岡市(旧妙義町)を勧進して、ここに分社を置いたと伝えられていますとのこと。

大堀切オ

本丸から西尾根を進むと、この分岐になります。ここから慈眼山心念堂の道、北西尾根を歩きます。

腰曲輪が二段確認できます。尾根を下り

写真では道でしかないように見えますが、右手の薮を含む北西曲輪です。

北西曲輪の北下に素晴らしい土橋、虎口

北西尾根第二曲輪

第二曲輪の先に土橋

北西尾根第三曲輪

第三曲輪の北側下に土橋と虎口、これを右手に進めば心念堂、まっすぐ尾根を登れば、心念堂砦(勝手に命名しました。)

心念堂砦第一曲輪

尾根を狭めて守りやすくしています。

前の写真を上から見下ろすと、小曲輪が監視していることが分かります。

砦の本丸城壁が見えてきました。

砦の本丸には石碑が多く建てられています。

次回 心念堂砦からもどり、南西尾根を進み南西の砦へ

三村氏の滅亡

 以後、三村長親は武田氏に属したが、天文二十四年正月二十八日、甲府一蓮寺において、長親主従二百余人は晴信によって撫で斬りにされたと『三村氏系図』に記されている。
 長親らが信玄に殺害されたことを知った洗馬の一族は一揆を起こして、武田氏に抵抗したが、深志城代馬場美濃守によって制圧された。三村一族は戦死あるいは生け捕りされ、三村氏の領地はことごとく没収となり、三村一族は没落したのである。
 長親の嫡男長行は、叔父にあたる岡田伊深城主で洗馬郷をも管掌していた後庁城主の後庁出羽守久親の養嗣子となって後庁を相続し、これを名字とした。長行は、天正十年(1582)六月、当時、深志回復を目論んでいた小笠原貞慶より、後庁の名字相続と洗馬城堀廻三千貫文の知行約束を受け、さらに、その後すぐ、その忠節を賞されて小笠原家の奉行人に列せられた。
 小笠原家を裏切った父長親と異なり、長行は貞慶に忠勤を励んだことがうかがえる。 武家家伝より

この長親の悲劇が記事1の「夜泣石」という伝説になっています





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