前回記事は西尾根を紹介しています。本当によく整備されています。梅雨時期が過ぎて草木が繁茂する前に、訪問されるようお勧めします。
南からの壕道を越えて西尾根は続きます。
第一堀切
第二堀切
第三堀切
第四堀切の上に第一曲輪
第一曲輪を東から見ています。
第五堀切の上に第二曲輪
第六堀切の上に第三曲輪
西尾根は段々と急になってきます。
第七堀切
第八堀切(二重堀)
第七堀切を見下ろしています。
西尾根の橋頭堡第四曲輪の城壁
縄張り図は「信濃の山城と館4」松本・塩尻・筑摩編、蓮華寺の北の尾根を登って、西尾根と書かれたところまで紹介してきました。
次回 曲輪3から西小屋とある北尾根を歩きます。
小笠原氏
小笠原氏の家名のもとになった「小笠原」の地名は甲斐国巨摩郡に見られ、小笠原牧や山小笠原荘があった現在の山梨県北杜市(旧北巨摩郡明野村)明野町小笠原と、原小笠原荘があった現在の山梨県南アルプス市(旧中巨摩郡櫛形町)小笠原に居館があったとされる。なお、今日の研究[1]では原小笠原荘が小笠原氏の本貫であったと考えられている。
甲斐源氏の嫡流となった武田氏に対し、加賀美氏流の小笠原氏は庶流にあたるものの、格式や勢力の上では決して武田氏に劣ることなく、全国各地に所領や一族を有する大族である。鎌倉時代から信濃に本拠を移し、室町時代には幕府から信濃の守護に任ぜられた。嫡流は信濃と京都に分かれ、庶流は信濃国内はもちろん、阿波、備前、備中、石見、三河、遠江、陸奥にも広がった。戦国時代には小笠原氏の宗家は武田氏に所領を奪われて没落するが、安土桃山時代に再興し、江戸時代には譜代大名となった。ウィキペディアより
南からの壕道を越えて西尾根は続きます。
第一堀切
第二堀切
第三堀切
第四堀切の上に第一曲輪
第一曲輪を東から見ています。
第五堀切の上に第二曲輪
第六堀切の上に第三曲輪
西尾根は段々と急になってきます。
第七堀切
第八堀切(二重堀)
第七堀切を見下ろしています。
西尾根の橋頭堡第四曲輪の城壁
縄張り図は「信濃の山城と館4」松本・塩尻・筑摩編、蓮華寺の北の尾根を登って、西尾根と書かれたところまで紹介してきました。
次回 曲輪3から西小屋とある北尾根を歩きます。
小笠原氏
小笠原氏の家名のもとになった「小笠原」の地名は甲斐国巨摩郡に見られ、小笠原牧や山小笠原荘があった現在の山梨県北杜市(旧北巨摩郡明野村)明野町小笠原と、原小笠原荘があった現在の山梨県南アルプス市(旧中巨摩郡櫛形町)小笠原に居館があったとされる。なお、今日の研究[1]では原小笠原荘が小笠原氏の本貫であったと考えられている。
甲斐源氏の嫡流となった武田氏に対し、加賀美氏流の小笠原氏は庶流にあたるものの、格式や勢力の上では決して武田氏に劣ることなく、全国各地に所領や一族を有する大族である。鎌倉時代から信濃に本拠を移し、室町時代には幕府から信濃の守護に任ぜられた。嫡流は信濃と京都に分かれ、庶流は信濃国内はもちろん、阿波、備前、備中、石見、三河、遠江、陸奥にも広がった。戦国時代には小笠原氏の宗家は武田氏に所領を奪われて没落するが、安土桃山時代に再興し、江戸時代には譜代大名となった。ウィキペディアより