山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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堀之内城③

2017-05-28 19:35:47 | 山城ー信州
西尾根を歩きます。

前回の尾根を、此の扇で結び

北の尾根に誘導する通路です。

北尾根

北尾根を南から見ています。

北尾根の北側下の曲輪1

北尾根の西先端部

北尾根を南側下から見上げています。

北尾根の南下曲輪2 要は北尾根を挟んで、両側に長い曲輪を配しています。

北尾根は溜池の北側の畑、西側に位置しています。


釈尊寺

観音堂から本堂を見下ろしています。

縄張り図は「戦国武田の城」より、釈尊寺から南に、階段状に屋敷群が並んでいます。

天文17年(1548)に武田信玄が佐久地方に侵攻し、布下仁兵衛(長野県小諸市大久保字堀之内:堀ノ内城の城主)・楽厳寺入道(長野県小諸市大久保字前法:楽巌寺城の城主)と戦った兵火により多くの堂宇が焼失、布下氏と楽厳寺は領主である望月氏(長野県佐久市望月:望月城の城主)に従っていましたが、この戦いの結果、両氏は村上氏を頼り落ち延び、武田信玄の実弟武田信繁の長男である信頼が望月氏の名跡をついで望月家は事実上武田家に乗っ取られています。布引観音の由緒上は弘治2年(1556)に当時の望月城の城主である滋野左衛門佐が堂宇の再建を図ったとされますが、滋野左衛門佐とは望月信永(武田信繁の3男)の事で、実兄で上記の望月信頼が死没した永禄4年(1561)に望月家を継いだ為、氏名か年号どちらかに誤りがあると思われます。布引観音は天正10年(1582)に武田家が滅び、望月家が没落するまで庇護され、その後は小諸城の城主になった依田氏などに引き継がれたと思われます。江戸時代に入ると歴代小諸藩(藩庁:小諸城)の藩主から庇護され、享保8年(1723)に火災により焼失後、翌年には当時の藩主である牧野周防守康明が再建しています 長野県 歴史・観光・見所(ホーム)サイトより引用