山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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大岩城③

2017-01-09 11:49:28 | 山城ー信州
本丸から二の丸へ


本丸を北から見ています。櫓台なのか瘤があります。

本丸の瘤の所から南奥を見ています。

説明版

本丸南下、二の丸

二の丸から本丸城壁を見ています。本丸東下に腰曲輪も見えます。

空堀から三の丸

真正面に三の丸を見ています。3-A

縄張り図は「信濃の山城と館」水内・高井編

宮坂氏は三の丸を一つとして描いていますが、実際は幾つかの曲輪が段をなしています。手前が3-B

3-C

3-D

3-Aを見下して、空堀越しに二の丸。三の丸の方が本丸のように思えます。
次回 曲輪4から南尾根曲輪群へ(宮坂氏は描いていません。)

須田氏の発展

 鎌倉時代の須田氏としては、先述のように源頼朝が入洛したときの随兵中に須田小大夫がみえている。須田氏は須田郷を本拠として大岩郷にも進出していたようで、そのことは、『諏訪上社大社文書』に「外垣ニ間大岩上・下」とあり、大岩郷内は上条・下条に分かれて開発が進んでいたことが知られる。そして、須田氏の大岩郷支配は鎌倉時代後期のころからと思われる。
 大岩郷の大谷の鎌田山に古城とよばれる要害が残り、その麓に二町歩ほどの平地があり、そこが須田氏の居館祉であったものと考えられている。また、須田氏は米子へも進出していたようだ。すなわち、足利尊氏と弟の直義が争った観応の擾乱(1352=観応三年)のとき、須田入又四郎は足利尊氏に属して米子城に立て籠って直義党軍と戦っている。このことは、須田氏が早くから米子の地に進出して支配を固めていなければ、難しかったであろう。
 その後、南北朝の内乱が終わり守護権力が確立されてくると、信濃の国人衆らはみずからの権益を守るため連合して守護権力と対抗した。そして応永七年(1400)、新信濃守護小笠原長秀と村上氏を盟主とする国人連合が激突した。この「大塔合戦」に際して、須田伊豆守が国人勢力に属して出陣している。室町時代における須田氏の動向は必ずしも明確ではないが、、永享の乱のころには須田為矩、須田式部丞らがおり、そして、諏訪神社の記録である『諏訪御符礼之古書』の室町時代後半の記述には、須田上総介満繁、須田信濃守祐国らの名がみえている。しかし、これら須田氏の系図上の関係は必ずしも詳らかではない。 武家家伝 より