山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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氏族の追跡(横尾氏)「九州の伝承」④

2015-03-20 21:44:15 | 氏族の追跡
日向の細島港へ
周防八島から豊後水道をぬけ日向灘を南下した資盛らの船団だったが、奄美大島に伝わる『三所大権現宮鎮座本記』、日向の『富高八幡宮由来記』富高陣屋の記録『日向国御料発端其外旧記』などの古記録によれば、資盛の船団には弟で有盛、従兄弟で行盛もいたことになっているが、船団は、三月十七日に日向の細島港に着いた。がしかし、ここで源氏方に知られることになる。
 宮崎県日向市草場に、「富高八幡社」がある。ここの願文に、当時の宮司河野伊右衛門に宛てた「那須与一」と「工藤祐経」からの手紙があり、「我々は、安徳天皇を追って、この地にやってきた」としたためられているのである。両名は、頼朝より平家追討、というよりも、三種の神器奪還を命ぜられ、確かに日向にやってきているのである。そしてここに鎌倉八幡宮を勧請して、「富高八幡宮」を建立したというのである。
 安徳天皇や有力な公達たちの死亡を誰よりも信用しなかったのは、頼朝だっただろう。つまり頼朝は資盛が日向一円の広大な御領を支配していた土持氏を頼って、日向の細島に上陸したことを掴んだのである。しかし土持氏は、平家それも安徳天皇を庇うことは、厄介な火種を抱え込むことになり、自滅する恐れがあると、この事態を快く思わなかった。ならばと資盛は、さらに山間奥地へ逃げる道と、南海へ船を進めていくことを考えた。源氏の追討軍を困惑させ、追撃の兵力を弱めようと、手勢を二手に分けることにしたのである。
 資盛は、十八歳の娘、鶴富姫にこの作戦の意図するところを説き、有盛、行盛を先導に、替え玉の安徳天皇を連れて、耳川を遡らせて椎葉の山中に向かわせた。この部隊の行く手に源氏勢を引き込み、時間を稼ぐ狙いもあったのであろう。
 資盛はこれを見届け、十三日間の情勢を調べ滞在したのち、本物の安徳天皇は自ら守りぬこうと、南海へ出発した。一方の源氏方の追討については、椎葉村に伝わる『椎葉山根元記』や『十根川神社由来記』によると、那須与一は病床に伏していたので、かわりに弟の「那須大八郎宗久」がこの命を受け、平家を追って椎葉にやってきたということになっている。

 南海を船出した資盛一行についての運命を知りたい方は『平家秘史』を購入していただき、次回は横尾一族も同行したであろう鶴富姫の逃避行を追ってゆきます。