てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

ルーヴルの裸の賓客たち(4)

2005年10月07日 | 美術随想
 アングル対ドラクロワという図式は、どうやら彼らが現役だったころにはすでにあったようで、それが現在まで飽きることなく繰り返されてきたものらしい。この両巨匠が馬にまたがって決闘をしている様子を描いたカリカチュアが残されている。彼らは剣のかわりに、巨大な絵筆を構えた姿で描かれた。アングルは細く尖った筆を、ドラクロワはふさふさした太い筆を、そして盾のかわりにパレットを。確かにこの風刺画は、彼らが犬猿の仲だったということを彷彿とさせてくれるだろう。だが、鋭い目つきで両者が闘いを挑む本当の相手は、アトリエに戻った彼らの前に立ちはだかるキャンバスだったはずである。

 ありとあらゆる美術の潮流が出尽くしたと思われる現在、ぼくたちはアングルの絵もドラクロワの絵も公平に楽しむことができる。しかし個人的な好みをいわせてもらうなら、ぼくにはアングルの絵の方が親しみやすい。それは先に述べたような、彼の裸体画に関する少年のころの小さな葛藤の記憶によるのかもしれないが、アングルの絵が美の極点のひとつに到達しているのではないかという、少々冷静さを欠いていなくもない感想を、ぼくはなかなか捨て去ることができないのだ。

 ぼくのように絵心を持たない人間にとって、あるものが現実にそこに存在するかのように描くという画家の技量は、本当に羨ましいものなのである。それは魔法か錬金術のたぐいにさえ見えるといっても決して誇張ではない。もちろん彼らは魔法使いではなく、厳しい鍛錬のあげくに高度な技術を獲得した人間たちなのだが、いったいどうすれば彼らのような絵が描けるものなのか、まったく予想もつかないというのが正直なところだ。ちなみにここでいう彼らとは、アングルのほかにフェルメールも含まれるし、ちょっと間口を広げてダリの名前をそこに加えたい気もする。この3人は、自分たちの絵から“絵画っぽい”マチエールを徹底して排除した画家たちではなかったか(当然ながら、彼ら以外にもこういう画家は何人もいるだろう)。


 だからといって、ドラクロワのようにダイナミズムが勝った絵は嫌いだ、などというわけではもちろんない。ただ確実にいえることは、ぼくにはドラクロワの代表的な作品に接する機会がまだないということである。彼の大作のひとつ『民衆を導く自由の女神』が、1999年にチャーター機に乗って来日したことは記憶に新しいが、東京のみの公開だったので観ることができなかった。これも有名な『サルダナパロス(サルダナパール)の死』は、その下絵が今回の展覧会に出品されていたが、完成作は5倍の大きさにもなるというから想像がつかない。

 画集によると、ドラクロワの代表作のほとんどは(あの愛すべきショパンの肖像画を含めて)ルーヴルに所蔵されているらしいから、いつの日かそこを訪ねてみるしかないのだろう。ぼくが実際にドラクロワの名作群に囲まれたとき、いっぺんに彼の絵の虜になってしまわないとは断言できない。


 ともあれ今回のルーヴルの展覧会では、ドラクロワよりアングルに照明が当てられていることは確かである。『トルコ風呂』は、このたび初めてフランス国外に持ち出されたという触れ込みだ。そして『泉』も来ている。だが、それがすべてではなかった。

 『スフィンクスの謎を解くオイディプス』。まだ20代のアングルが描いた、男性の裸体像である。もちろん女の乳房を持つスフィンクスも端の方に描かれているのだが、中心を占めるのは筋骨隆々たるオイディプスの裸身だ。ぼくはこの絵を観て、少なからず驚かされた。腰をかがめて上体を前傾させたオイディプスのポーズが、ジェラールの描いたアモルのポーズとあまりにも似ていたからだ。だが彼は相手にそっと口づけをするどころか、対抗心を剥き出しにして、厳しい目つきで睨みつけているのだった。スフィンクスは思わず目をそらし、一歩後ずさりしたようにも見える。フランス画壇の第一線を生き抜いたアングルは、ただ女の裸体を賛美していただけではない。彼の意外な骨太さを見せられたような気がした。

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