てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

ルーヴルの裸の賓客たち(3)

2005年10月05日 | 美術随想
 フランソワ=エドゥアール・ピコの『アモルとプシュケ』という絵になると、同じふたりを描いても、場面はまったくちがう。寝台の上でしどけない寝姿を晒すプシュケは、明らかに愛のあとの充足の中にいる。大理石のように硬質で、白く透き通った肌をしていた乙女は、ここでは血のかよった成熟した女の肌をまとっている。彼女の右手は、腕枕でもしていたように横に投げ出されていて、まだ快楽の余韻から醒めてはいない。

 一方のアモルはというと、今しもプシュケのそばから離れようとするところだ。神としての姿をプシュケに見せることのできない宿命を負ったアモル。彼はプシュケに背を向け、寝台から降りようとしている。勤勉なことに、右手は“仕事道具”の矢立ての方に伸びているが(というより、もともと裸体である彼はそれしか身につけるものがないのだ)、首だけはプシュケの方を振り返っている。その顔つきは、プシュケのそれと比べると無表情だ。まるで彼女を値踏みするかのような、冷徹な眼差しをしているといってもいい。

 この絵でおもしろいのは、手の込んだ場面設定である。アモルは振り向きざまに、片手で寝台のカーテンを持ち上げている。それはもちろん彼自身が寝台の外へ出るためなのだが、同時にぼくたちのために緞帳を上げてくれてもいるのだ。絵画の中に突然、仮想の舞台空間の幕が上がる。そこには朝日のスポットライトを浴びて、上半身裸で眠りこけているプシュケの姿が現れる。愛の使者であるアモルがそのとき、ぼくたち観客に向かってこういう台詞を吐いたとしても、決して不思議ではないだろう。

 「皆さん、ぼくの手にかかれば、ざっとこんなもんです!」


 ぼくはどうやら、ジェラールの描いた可憐な処女プシュケが、初めての夜を終えて見ちがえるような女になった姿を、このピコの絵に見てしまったようである。うがった表現をするなら、彼女はまるでアモルの愛によって全身を揉みほぐされたかのようだったのだ。これはもちろん、悪趣味な想像の域を出ない。だがこのことは同時に、絵画の登場人物たちが“絵に描いた餅”であることをやめて、ぼくの頭の中で生き生きと行動しはじめた証拠でもあるように思う。

 神話の世界は、科学技術に四方を取り囲まれ窒息しつつあるかのような現代の中で、ぼくたちの生きる世界からは遥かに遠い存在であるかに見える。しかし神話に登場する神々の、自分の欲望にとことん執着した人間くさい生き方や、終わりなく繰り返される冒険の数々は、この停滞した世の中を鋭く逆照射するようにも思われるのだ。アモル、そしてプシュケ・・・この若くて美しい男女を描いた2枚の絵を前に、忘れかけていた人間の原始の姿を垣間見る思いがした。彼らは何て楽しそうに生きていることだろう! ぼくはほんのちょっとだけ、大らかな気分を取り戻していたようである。

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