京都の街中に「ルーヴル美術館展」のポスターが貼り出されはじめたとき、ぼくはたじろいだ。今度の展覧会にアングルの『トルコ風呂』が含まれているということは聞いていたが、その絵がまさに堂々と、ポスターの中央を飾っているのだ。裸婦たちがその豊満な肉体を誇示するかのごとく思い思いのポーズをとりながら、体をくっつけ合うようにしてぎっしりと描き込まれたその絵は、むやみに街頭に貼り散らかすような絵ではないという気がしたのである。
というのも、小学生だったぼくが家にあった百科事典のカラーページにその絵を見出したときの衝撃をいまだに覚えているからだ。それは禁断の世界を垣間見てしまったというに等しかった。断言するが、そのときはこの絵を美しいとは思わなかったにちがいない。むしろ淫靡な(という言葉は当時は知らなかったが)、けがらわしい、恥ずべきもののように、潔癖だったぼくの目には映ったはずである。
しかもその絵の円形の構図が、見てはならない情景を壁の穴から覗いているかのような感覚をぼくに与えたのだった。その秘めたる感覚が、ある種の後ろめたい、しかしくすぐったい快感を伴っていなかったとはいえないだろう。今や、この絵が展覧会の目玉としてポスターに取り上げられ、覗き穴の光景が公然の秘密のように人目に晒されているのを見て、ぼくが一抹の不安を感じたとしても、無理もないことだった。これを子供たちが見たら、いったい何と思うだろう?
少年のぼくが、あらゆる裸婦像に対してそのような見方をしていたわけでは決してない。同じ百科事典で見たのだったか、それとも他の本だったか忘れたが、『泉』と題された裸婦の立像を見つけたときは、犯しがたい清浄な美しさにうたれたものだ。その裸婦は重そうな水瓶を肩に担ぎ、女性には過酷とも思えるポーズをとっていながら、彼女の表情からはこの世ならぬ神聖なものが感じられ、その体に指一本触れることもためらわせる雰囲気があるのだった。後年、この2枚の絵がアングルという同一の画家の手になるものだと認識したとき、ぼくがにわかにその事実を受け入れられず、混乱したのはいうまでもない。
だが今になって思うと、ぼくは子供心に、裸婦像という画題がおのずから持つ二面性に気づいていたのかもしれない。話はルーヴルからちょっと離れるが、ティツィアーノの『聖愛と俗愛(聖なる愛と俗なる愛)』という絵がある。この絵には着衣の女と裸の女が並んで描かれていて、その両方ともが愛の女神ヴィーナスの姿だとされている。つまり精神的な愛と、地上的な愛という、愛のふたつの相の寓意らしいのだが、現代のわれわれの感覚とは反対に、精神的な愛をあらわすのは胸もあらわな裸体のヴィーナスの方だといわれているのである(若桑みどり「絵画を読む-イコノロジー入門」日本放送出版協会)。
つまりなにものによっても覆い隠されない精神性、あるいは世俗のものではない天上的なものを表現するために(またはそういう口実のもとに)裸体の女性像が描かれたというのだ。確かに『泉』は、そういった部類に属する絵にちがいない。それが擬人像であるということを知らなかったころのぼくですら、何らかの精神的なもの(平たくいえば、いやらしくないもの)を感じていたのは事実なのである。
だが、それとはまったく相反する作用を裸婦像から受けることも確かにある。これは誰も口に出してはいわないことだが、正直なところ、男なら誰でもあるにちがいない。『トルコ風呂』という絵は、オリエンタルな異国情緒というオブラートに包まれてはいるが、あまりにも肉感的な表現に満ちているといわざるを得ないのだ。だがこれらの絵についてはまた、後で触れよう。
ルーヴル美術館所蔵の絵画ばかりを集めた展覧会を観るのは、今回でおそらく3度目になる(わざわざ断るまでもないが、ルーヴル美術館そのものには行ったことがない)。最初は、もう今から12年も前に神戸で開かれたもので、この世界随一の美術館が誕生してから200年を迎えることを記念した展覧会だった。そのときもアングルの『アンジェリカを救うルッジェーロ』という大作が人気を集めていたが、それよりも何よりも大変な人出で、会場になっていた神戸市立博物館の周りを人の列が取り巻き、館内では係員が汗みずくになりながら「これで冷房は全開です」と絶叫していたのを思い出す。
2度目は今から8年前、今回と同じ京都市美術館で開催された展覧会だった。当時の図録を引っ張りだして見てみると、サブタイトルが「ロココから新古典派へ」となっている。今回のサブタイトルが「新古典主義からロマン主義へ」であるから、内容的には前回の展覧会を継承していることになるのかもしれない。
なぜかこのときの展覧会へは、2回出かけた記憶がある。おそらく、1回だけではあまりの人ごみのために心置きなく鑑賞できないうらみが残ったのだろう。2回目には時間前に美術館に駆けつけて、開門と同時に順路を無視してお目当ての絵の方へずんずん歩いていった。その絵とは、フランソワ・ジェラールの『プシュケとアモル』だった。そこに描かれた若い男女の可憐な裸身に、ぼくは本当に魅了されていたのである。この際ほかの絵はどうでもよくて、後続の客たちがだんだんとぼくの周囲を埋め尽くしはじめるまで、たったひとりでこの絵と向き合っていた。ひょっとしたらもう二度と観ることができないかもしれない絵の前から立ち去るのには、勇気がいった。
ところが今回もまた、その絵が来ているというではないか。ぼくはうれしいやら、ちょっと拍子抜けするやら、両方が入り混じった何だかややこしい気分になりながらも、展覧会に出かける目的が増えたことを喜んだ。『トルコ風呂』を観にいくんじゃないよ、『プシュケとアモル』にもう一度会いにいくんだよ・・・。まだ幼く純真だったころの自分に向かって、ぼくはそう言いわけしたい気持ちになっていた。
つづきを読む
というのも、小学生だったぼくが家にあった百科事典のカラーページにその絵を見出したときの衝撃をいまだに覚えているからだ。それは禁断の世界を垣間見てしまったというに等しかった。断言するが、そのときはこの絵を美しいとは思わなかったにちがいない。むしろ淫靡な(という言葉は当時は知らなかったが)、けがらわしい、恥ずべきもののように、潔癖だったぼくの目には映ったはずである。
しかもその絵の円形の構図が、見てはならない情景を壁の穴から覗いているかのような感覚をぼくに与えたのだった。その秘めたる感覚が、ある種の後ろめたい、しかしくすぐったい快感を伴っていなかったとはいえないだろう。今や、この絵が展覧会の目玉としてポスターに取り上げられ、覗き穴の光景が公然の秘密のように人目に晒されているのを見て、ぼくが一抹の不安を感じたとしても、無理もないことだった。これを子供たちが見たら、いったい何と思うだろう?
少年のぼくが、あらゆる裸婦像に対してそのような見方をしていたわけでは決してない。同じ百科事典で見たのだったか、それとも他の本だったか忘れたが、『泉』と題された裸婦の立像を見つけたときは、犯しがたい清浄な美しさにうたれたものだ。その裸婦は重そうな水瓶を肩に担ぎ、女性には過酷とも思えるポーズをとっていながら、彼女の表情からはこの世ならぬ神聖なものが感じられ、その体に指一本触れることもためらわせる雰囲気があるのだった。後年、この2枚の絵がアングルという同一の画家の手になるものだと認識したとき、ぼくがにわかにその事実を受け入れられず、混乱したのはいうまでもない。
だが今になって思うと、ぼくは子供心に、裸婦像という画題がおのずから持つ二面性に気づいていたのかもしれない。話はルーヴルからちょっと離れるが、ティツィアーノの『聖愛と俗愛(聖なる愛と俗なる愛)』という絵がある。この絵には着衣の女と裸の女が並んで描かれていて、その両方ともが愛の女神ヴィーナスの姿だとされている。つまり精神的な愛と、地上的な愛という、愛のふたつの相の寓意らしいのだが、現代のわれわれの感覚とは反対に、精神的な愛をあらわすのは胸もあらわな裸体のヴィーナスの方だといわれているのである(若桑みどり「絵画を読む-イコノロジー入門」日本放送出版協会)。
つまりなにものによっても覆い隠されない精神性、あるいは世俗のものではない天上的なものを表現するために(またはそういう口実のもとに)裸体の女性像が描かれたというのだ。確かに『泉』は、そういった部類に属する絵にちがいない。それが擬人像であるということを知らなかったころのぼくですら、何らかの精神的なもの(平たくいえば、いやらしくないもの)を感じていたのは事実なのである。
だが、それとはまったく相反する作用を裸婦像から受けることも確かにある。これは誰も口に出してはいわないことだが、正直なところ、男なら誰でもあるにちがいない。『トルコ風呂』という絵は、オリエンタルな異国情緒というオブラートに包まれてはいるが、あまりにも肉感的な表現に満ちているといわざるを得ないのだ。だがこれらの絵についてはまた、後で触れよう。
ルーヴル美術館所蔵の絵画ばかりを集めた展覧会を観るのは、今回でおそらく3度目になる(わざわざ断るまでもないが、ルーヴル美術館そのものには行ったことがない)。最初は、もう今から12年も前に神戸で開かれたもので、この世界随一の美術館が誕生してから200年を迎えることを記念した展覧会だった。そのときもアングルの『アンジェリカを救うルッジェーロ』という大作が人気を集めていたが、それよりも何よりも大変な人出で、会場になっていた神戸市立博物館の周りを人の列が取り巻き、館内では係員が汗みずくになりながら「これで冷房は全開です」と絶叫していたのを思い出す。
2度目は今から8年前、今回と同じ京都市美術館で開催された展覧会だった。当時の図録を引っ張りだして見てみると、サブタイトルが「ロココから新古典派へ」となっている。今回のサブタイトルが「新古典主義からロマン主義へ」であるから、内容的には前回の展覧会を継承していることになるのかもしれない。
なぜかこのときの展覧会へは、2回出かけた記憶がある。おそらく、1回だけではあまりの人ごみのために心置きなく鑑賞できないうらみが残ったのだろう。2回目には時間前に美術館に駆けつけて、開門と同時に順路を無視してお目当ての絵の方へずんずん歩いていった。その絵とは、フランソワ・ジェラールの『プシュケとアモル』だった。そこに描かれた若い男女の可憐な裸身に、ぼくは本当に魅了されていたのである。この際ほかの絵はどうでもよくて、後続の客たちがだんだんとぼくの周囲を埋め尽くしはじめるまで、たったひとりでこの絵と向き合っていた。ひょっとしたらもう二度と観ることができないかもしれない絵の前から立ち去るのには、勇気がいった。
ところが今回もまた、その絵が来ているというではないか。ぼくはうれしいやら、ちょっと拍子抜けするやら、両方が入り混じった何だかややこしい気分になりながらも、展覧会に出かける目的が増えたことを喜んだ。『トルコ風呂』を観にいくんじゃないよ、『プシュケとアモル』にもう一度会いにいくんだよ・・・。まだ幼く純真だったころの自分に向かって、ぼくはそう言いわけしたい気持ちになっていた。
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TBをありがとうございました。
先日、フィリップス・コレクション展で
やはりアングルの「水浴の女」が展示
してありましたが、小品ながらとても
美しかったです!
私が行った時は、夕方で雨が降っていて空いていましたので、全作品をゆっくりと鑑賞できました。
>特に美術鑑賞は、大切な心の栄養。
プロフィールのお言葉、本当ですね!!
これからも心の栄養ならダイエットすることなく、どんどん付けて行きたいですね!
TBさせていただきました。
TBありがとうございました。
こちらからもTBさせていただこうと思ったのですが、
何度もエラーになってしまいまして。。
コメントのみ、ですみません。
先月行ったばっかりなのに、もう随分時間が経っているような
そんな気がします。
まったくおっしゃる通り!なんですけど、
トルコ風呂はあまり好きではないのですが、
泉は好きです。キレイで惚れ惚れします。。
至る所にトルコ風呂、溢れてましたね!
TBありがとうございます。
私は『プシュケとアモル』も『トルコ風呂』も
苦手なのですが...
> 後続の客たちがだんだんとぼくの周囲を埋め
> 尽くしはじめるまで、たったひとりでこの絵
> と向き合っていた。ひょっとしたらもう二度
> と観ることができないかもしれない絵の前か
> ら立ち去るのには、勇気がいった。
こういう気分はとてもよく分かります...(^^)
ぜひルーブルでもう一度見たい絵です。
「トルコ風呂」はきれいな絵ではあるけどたしかに猥雑な感じがしますね。
それに比べると「プシケとアモル」のあの清純さは宝石のようでした。こちらからもTBさせていただきますね。よろしくお願いします
ぼくも見たかったですね、その『水浴の女』。
心の栄養をつけるには、かなりの努力も必要だなと、このところ痛感しています。何となく毎日を過ごしていては、消費するだけになってしまいますから・・・。
そう自分に言い聞かせながら、展覧会めぐりをする日々を送っています。
>はなさん
エラーになっちゃうんですか? どうしたんでしょう。
また改めて送ってみてくださいね。
『トルコ風呂』は、意外と好きではない人が多いみたいですね。ぼくも最初はそうでしたが・・・。
『泉』との比較という意味では、なかなか興味深いと思います。同じ裸婦でも、こうもちがうかという感じです。
画家の貪欲な美の追求には、頭が下がります。“これで完成”などということはないのかもしれません。
>lysanderさん
自由に海外の美術館を巡ることができたらいいのですが、今のところ、こちらに出張してくれるのを待つしかないのが辛いです。
ルーヴルの美術品は、やはりルーヴルで楽しむのがいちばんかとは思いますが・・・。
でもあちらの展示方法は、縦2段に絵が掛けてあったりするので、今回の方が絵が近くて見やすかったのかもしれませんね。
>リカさん
気に入った絵は、まるで磁石のように、その場に釘付けにしてしまう魔術を持っているようです。
そういう至福の瞬間を求めて、いつも展覧会に出かけているような気がします。
『プシュケとアモル』に、また会えたらいいですね。
>みどりさん
裸体画でも、猥雑に見えるときと、清純に見えるときがあるのは不思議です。
それはいったいなぜなのか・・・というようなことを、ぼくなりに考えてみたのが今回の記事でした。
よかったらまた遊びにいらしてくださいね。
先日もある方とお話していた中に
ルーヴル行ってもちゃんと観られない。
という意見がありました。
確かに。
私はアングルは苦手で行くかどうしようか正直迷いましたが(あのポスターとか…)行ったら行ったでイッポリット・フランドラン「若い娘の肖像ー若いギリシア人の娘」やポール・ドラロージュ「若き殉教者の娘」など現地では絶対見逃してしまいそうな素晴らしい作品に出会えて流石ルーヴルと唸らせるものありました。
今後とも宜しくお願い致します。
TBありがとうございます!
たまには、芸術に触れるのも刺激になっていいですね!
しかし、あまりの人の多さにびっくり!!
次に行く機会があったら会期はじめの頃に
ゆっくりと見てみたいと思います。
展覧会に出かけてみると、公式サイトやポスターで紹介されている以外にも、自分の好みにフィットする“掘り出しもの”があるものですよね。
今日という日は、この絵と出会うためにあったのではないかと思うこともあります(大げさですが・・・)。
こちらこそ、今後ともよろしくお願いします。
>youさん
京都でのルーヴル展もとうとう終了してしまいましたね。
たまたま最終日に美術館の前を通ったのですが、建物の裏手まで行列が続いていました。この手の展覧会は、早めに出かけておくのがベストでしょうね。
といっても、なかなか思うようにはいきませんが・・・。
TBありがとうございます。
私は今回のルーブル展、物足りなかったです。
なんでだろう? 家に帰ってきて西洋美術辞典をめくり、なんとなく理由がわかりました。アングルの作品でも京都にやってきたものはあまり好みではなかったのです。今回は有名どころを押さえてあったのでしょうか。どこか誌上で見たものが多く新鮮味がなかったのかもしれません。ちなみに「トルコ風呂」と「草上の昼食」では断然「草上の~」のほうが扇情的だと私は思います。当時の人が騒いだのもナットク(笑)