てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

ルーヴルの裸の賓客たち(5)

2005年10月09日 | 美術随想
 有名な絵画の中には、本やテレビなどであまりにも頻繁に目にするために、その絵のことをよく知っているように思い込んでいるものがある。しかし、実際にその絵と(実物であれ複製であれ)じっくり向き合ったことがあるかというと、意外とそうでもない。毎日顔を合わせる家族や同僚の姿を、改まってしげしげと眺めることがないのと同じだ。アングルの『泉』も、そういった“有名すぎる絵画”のひとつであるような気がする。

 いよいよ『泉』と向き合う。一見してやはり美しい、均整のとれた裸体である。しかしアングルの裸体画にはよくいわれることだが、細部を取り出して見てみると、やや不自然な感じがしないでもない(彼の『グランド・オダリスク』が「背骨が3本多い」と酷評されたのは有名な話だ)。この絵でも、例えば右腕が異常に短く見える一方で、右足の大腿部は左のそれより明らかに長すぎるように思える。あら探しをしようとすれば、ほかにも見つかるだろう。


 『泉』は、実に36年もの歳月をかけて描き上げられたそうだ。これだけでも驚くべきことだが、この絵の前身ともいえる『海から上がるヴィーナス』(ほぼ同じポーズの女性が描かれている)から換算すると、実に半世紀近くもひとつの裸婦表現を模索しつづけたことになる。尋常ならざる執着ぶりだというしかない。しかし画家は、何もこの絵のモデルに執着していたわけではないのである。

 絵を描くということは、立体の美をそのまま平面に描き写すことではなく、平面上に新しい美を創造することであるはずだ。アングルはそのことをよく知っていたにちがいない。目に見えるものを手がかりにしながら、それとは似て非なる新たな美を二次元上に構築したのである。いや、これは画家でもないぼくがわざわざ強調することでもない。そもそも絵を描くとは、そういうことではないか? 間違っても、まるで写真みたいにそっくり同じものをキャンバスの上に再現しようとは思わなかったはずだ。

 その意味ではアングルもドラクロワも同朋であるし、ピカソだって彼らの仲間である。異常に引き伸ばされたオダリスクの背中も、横顔に両目がいっぺんに描きこまれたピカソの肖像も、同じ根っこから咲いた花なのだ。画家にのみ許されたやり方で飽くことなく美を追求しつづけた、絵の鬼たちのなせるわざである。


 ぼくは、アングルの裸体画を語る際によく使われる「理想化された女性像」というキーワードを信じない。彼は故意に人体を捻じ曲げ、誇張したのであり、批評家たちからたびたびその“醜さ”を厳しく非難されているからだ。彼の生み出す女性像は“現実の理想の女性像”からは遠ざかっていかざるを得なかった。しかしその結果として、アングルにしか描き得ない女性像が誕生することになる。これは“美の典型”に安易に従うことをせず、彼みずからが新しい“美の基準”を作り上げたことにほかならない。

 半世紀にもわたる“産みの苦しみ”を経て画家が探し求めた美のプロポーションは、『泉』となってここにようやく結実した。その“新しい裸婦像”はしかし、太古の昔から同じ姿でそこにあるような揺るぎない存在感をたたえているではないか。これはまったく、大いなる謎だとしかいいようがないのである。

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