てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

裸の大将と着衣の画家 ― 山下清の歩み ― (5)

2008年04月06日 | 美術随想

『ロンドンのタワーブリッジ』

 現代で山下清と比べ得る画家といったら、誰だろう。そんな人はいない、というのが大方の意見かもしれないが、ぼくは安野光雅氏がそれにあたると思う。安野氏はもちろん知的障害者でないどころか日本を代表する知性の人だし、世間から行方をくらまして勝手に放浪しているわけでもなく、おそらく綿密な計画を練って旅行されているのだと思うが、世界中あちこちの風景と出会い、それを絵画に写し取る達人という意味では、他に思いあたる人はない。

 しかし安野氏は、現場で必ずスケッチブックを広げる人である。清のように、記憶をたどって絵を描くわけではない。安野氏の水彩画からは無駄な要素が省かれ、なにげない風景も彼独特の流儀で見事に絵画化されている。いわばそこには、洗練された“画家の論理”が働いているのである。

 39歳になってはじめて海外旅行へ出かけることになった清は、ようやくスケッチブックを持参することを決意した。外国にはどんな景色があるのかわからないので、用心のためにスケッチブックを持っていった、ということらしい。ヨーロッパの9か国を40日で回るという、無謀とも思えるスケジュールをこなして帰国した彼は、その年のうちに急ピッチで貼り絵や水彩画を仕上げ、展覧会を開いているというから驚いてしまう。現代の画家と比べても非常にタイトな、売れっ子の仕事ぶりである。

 大作『ロンドンのタワーブリッジ』は、しかしそうやって急いで描かれたものではなく、旅行から4年も経って完成された。清はこれと並行して『新東京十景』という素描画の連作を手がけ、さらに『東海道五十三次』シリーズの制作も進めていて、日本の風景にどっぷり浸かっていたわけだが、合い間を縫ってこんなに鮮明なヨーロッパの風景画を仕上げたのだ。

 この作品は清の貼り絵のなかでも、その表現の細かさと完成度の高さにおいて、最高傑作のひとつと呼び得るだろう。絵の構図自体はまるで絵はがきのようで、平凡といってもおかしくはないが、そこには妥協のないほどに“清の論理”が徹底されているのだ。彼は洗練へと向かうよりも、細部への尋常ならざるこだわりを増していったように思われる。

 穏やかな青空を背景に、細いこよりでびっしりと構築されたタワーブリッジ。船の上や、2階建てバスの窓のなかにまで人影がある。普通の人間の眼には、このようにあらゆる細部が同時に見えているはずはない。現場のスケッチに頼ろうとしなかった清が、心の印画紙に焼き付けた風景をすみずみまで眺めなおして再現した、奇跡のような作品だといいたい。

 楷書体で書かれた署名までが、こよりでできている。色紙によってこれ以上踏み込んだ表現は望むべくもない、“貼り絵の極北”である。

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『長岡の花火』

 1971年7月10日、山下清は脳出血で倒れているところを発見され、翌々日に息を引き取った。49歳の若さだった。ぼくが生まれるつい40日ほど前のことで、そう思うと何だか感慨深いものがある。

 「今年の花火大会はどこへ行こうかな」というのが、清の最後の言葉だったという。それに対して、誰かが「やっぱり長岡かな」と返事をしたということである。長岡といえば、清の貼り絵のなかでもっとも名高い『長岡の花火』を忘れることはできない。ぼくはこの一枚を観るために、スケジュールをやりくりして彼の展覧会に出かけているといってもいいほどだ。「やっぱり長岡かな」の“やっぱり”とは、この絵のことを踏まえているのだろう。

 ぼくは近畿一円の花火大会にはよく出かけるが、遠く離れた長岡の花火は実際に見たことがなく、これからも見る機会があるとは思われない。映像で見るかぎりでは規模も大きく、素晴らしい花火大会のようだが、大きな音でBGMが流されたりしていて、いくぶんショーアップされたような感じである。現在の花火大会はこれが主流のようで、なぜ純粋に花火を楽しませてくれないのだろうと不満に思うこともあるが、山下清が生きていたころには、まだ古きよき時代の花火大会のスタイルが残っていたにちがいない。

 このたびの展覧会でも、『長岡の花火』と対面することができた。この絵は山下清が28歳のころのもので、放浪生活をやめる前の作品である。つまり、信じられないことだが、清はあてのない放浪の途次に偶然、この花火大会に遭遇したのであろうか。それとも旅先で出会った人に連れて行ってもらったのでもあろうか。

 清は眼に見える風景だけを記憶して描いたようにいわれているが、ここには実際に見ることができないはずの打ち上げ用の台船や、対岸の地形の起伏までが描かれている。あたりが暗くならないうちに眼に焼き付けておいた記憶を合成して、清はこの絵を描いたのだろう。それにしてもこんなに素朴で、しかも神々しさをあわせもっている花火の絵というのを、ぼくはほかに知らない。

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 彼は視覚だけに頼らず、自分がかつてそこにいた“場”の全体を表現しようとしたのではないか、と思う。放浪というのは、いわば身をもって日本の自然や四季を体感するプロセスであった。花火を見るためだけに長岡に出かけ、それが終わるとそそくさと帰ってしまうような、まるでピストンの動きのような観光をしている人には、清のような絵が描けるわけもない。

 そして今現在、鉄道はますます高速化し、時間は短縮され、旅行はすなわちピストン運動のごときものと成り果てている。山下清の描いた日本の風景は、われわれの視界から徐々に遠ざかりつつあるだけでなく、ぼくたち自身の“肉体の記憶”としても、もはや消えかけているといっても過言ではない。

 山下清の絵は、彼の坊主頭の風貌と、時代に流されない飄々とした口ぶりとともに、日なたくさい匂いを放ちながら、ぼくの胸中に大切にしまわれている。

(了)


参考図書:
 山下浩「家族が語る山下清 ― 夢みる清の独り言」(並木書房)

DATA:
 「山下清展 ― 時代を歩いた放浪画家の生涯 ―」
 2008年3月21日~3月26日
 近鉄アート館

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