てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

裸の大将と着衣の画家 ― 山下清の歩み ― (4)

2008年04月05日 | 美術随想

『桜島』

 18歳ではじめて放浪の旅に出た山下清は、3年後にぶらりと姿をあらわすが、それ以降も断続的に放浪をつづけ、大人になっても治らなかった。ほとんどが徒歩での移動で、日本の五分の一を歩きとおしたといわれている。

 しかし放浪先で貼り絵を制作することはほとんどなく、風景画はほぼすべて、学園や家に戻ってから記憶をもとにして描かれたそうだ(ドラマでは旅先で貼り絵を作ることになっているそうで、これは事実と大きくちがう)。カメラはおろか、スケッチブックすらも持たない手ぶらの旅だったということだが、完成された作品は、その土地を知る人ならたちどころに場所が特定できるぐらい正確さをきわめていたという。清の超人的な記憶力には本当に驚かされる。

 しかし正確とはいっても、その絵は風景を写実的に写し取っただけのものではない。清の絵には、本人が意識したかどうかは別として、独特のイマジネーションの発露があると思う。

 それには、彼ならではの貼り絵という制作方法が関係していることは間違いない。普通に考えれば、絵の具で描くよりはるかに制限をともなうこの技法を駆使することで、これまで誰も観たことのなかったような個性的なイメージを展開させることができたのである。山下清以前にも、あるいは彼が没してから37年もたつ今現在でも、名の知られた貼り絵画家というのがほとんど存在しないことを考えると、清の作品がいかに独創的だったかがわかるというものだ。彼の絵がいまだに愛されつづけている理由のひとつは、そのへんにもあるのだろう。

                    ***

 『桜島』を描いたとき、清はもう32歳になっていた。この地は、彼の人生にとってひとつの大きな転機となった場所である。ここはいわば、彼の放浪の最果ての地であった。

 当時、清は人生で何度目かの旅に出ていて、その行方は杳として知れなかった。おもしろいことに、アメリカの「ライフ」誌がこの異国の放浪画家を探しはじめ、同時に朝日新聞もまた、新聞社のネットワークを使って全国的に清の捜索に乗り出した。大々的な“人探し”の結果、清はひとりの高校生の通報により、桜島をのぞむ海岸付近で発見されたのだった。

 そのときを境に、清は長年の放浪癖に終止符を打った。3年後には弟家族と同居することになり、裸の大将の自由な放浪生活は幕を閉じたのである。そしてそのかわりに、マスコミに引っぱりだこの日々がはじまったのだ。

 『桜島』は、清が“仕事”として貼り絵の制作をはじめたもっとも初期の作品だといっていいだろう。彼にとって思い出深い桜島の風景が描かれているわけだが、しかしよく観るとそれだけではない。鹿児島湾には小さな蒸気船が浮かび、煙突から煙を吐いている。前景には真っ直ぐな線路が横切り、制服に身を固めた作業員がスコップやピッケルを持って集まっている。さらにその手前には、畑を耕す人の姿も描かれているのである。戦後14年目を迎え、近代国家へ向けて変貌しつつある地方都市の段面が、この一枚の貼り絵のなかに見事に凝縮されていることに、今さらながら驚かざるを得ない。

 なおこの絵の裏側には、清自身が絵の制作工程をこと細かに書きつけているという。何月何日の何時から何時まで仕事をした、ということが几帳面に記されているのである。それによると完成までにかかった日数は25日、制作に要した時間のみを累計すると5日と6時間40分になるということである。まるで勤怠管理をされている会社員のようではないか!

 こうして、職業画家としての清の日常がはじまったのだった。

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