てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

ルーヴルの裸の賓客たち(2)

2005年10月04日 | 美術随想
 ルーヴル美術館というと、まさしく美術館の中の美術館で、美術にまったく縁のない人でもその名前ぐらいは知っていると思われる。つまり、ぼくたちに親しい存在のはずなのだが、いざルーヴルから来た作品群にぐるりと取り囲まれてみると、そこには容易に乗り越えられない壁が立ちはだかっているように感じるのは、ぼくだけだろうか。

 そこには、ルーヴルという最上級のコレクションに含まれているとはいえ、一度も名前を聞いたことのない画家たちや、何の場面を描いたかわからない歴史画などが、たくさん含まれていることも事実なのである。そういった作品といきなり胸襟を開いて対話をするのは難しい。ぼくたちが普段観ることの多い、いわゆる印象派の絵画や、20世紀のポピュラーな芸術家の展覧会に比べて、彼らの絵はよそよそしく、近寄りがたい気がする。

 “時代”の圧倒的な存在を感じるのは、やはりそういうときだ。蓄積された時間の重さ、といってもいい。例えば博物館か何かで江戸時代に書かれた書状を見たり、いやそこまでさかのぼらなくても明治時代の手紙などを見たりするとき、同じ日本語でありながらどうにも判読できないもどかしさ、居心地の悪さを感じることが少なくない。それと同じ戸惑いの中に、足をとられてしまいそうになるのである。

 そんなぼくに手を貸すかのように、絵のタイトルはそれが何を描いたものであるかを説明してくれる(歴史や神話の場面を描いた絵には、後世の学者が名づけたのかどうか、やたら説明的な題名が多い)。それはそれで、もちろん大事なことだ。しかし、頭で理解することと、芸術を楽しむこととは別である。ぼくたちはその絵の中に、現代人にも無条件に共感できる普遍的なものを、無意識のうちに探しているのかもしれない。そしてその手がかりは、この絵の登場人物が誰であるか、場所がどこであるかということよりも、描かれた人間の姿そのもの、風景そのものの中にあるにちがいない。


 8年ぶりに再会したジェラールの『プシュケとアモル』は、やはり可憐で、美しかった。磁器のように白く透き通った肌をしたプシュケ。彼女の額に、翼を持った青年アモルがそっと唇を近づける(プシュケには、神であるアモルの姿は見えない)。アモルの両手はプシュケの肩を抱こうとしているが、彼女に触れてはいない。触った瞬間に、この清純な乙女は音をたてて崩れ去ってしまうかのようである。ふたりの足もとには春を思わせる花が咲き乱れ、プシュケの頭の上には1匹の蝶が音もなく舞っている。

 神話の一場面である以前に、ここには何とも純真で甘美な、恋する若い男女の姿がある。あらぬ方を見やりながら、わが身を守るように自分自身をそっと抱きしめるプシュケのポーズは、彼女が直面している事態へのかすかな戸惑い、揺れ動く心境を遺憾なく表現している。希望に裏打ちされたためらい、とでも呼んだらいいだろうか。そしてアモルは、腰をかがめて上体を傾け、彼女との距離を慎重に測りながら、顔をだんだんに近づけていく。

 若く美しいふたりの男女が初めて触れ合おうとする瞬間を、ジェラールはキャンバスの中に永遠に封じ込めた。ぼくたちも若いころに一度は経験したはずの、しかし時の流れとともにどこかに埋没してしまった恋の始まりのはかない記憶が、一抹の寂しさとともに脳裏を一瞬よぎったりするような、そんな絵だ。

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