てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

裸の大将と着衣の画家 ― 山下清の歩み ― (1)

2008年04月01日 | 美術随想

山下清

 久しぶりに、山下清の展覧会を観た。子供のころにはじめて観て以来、4回目ぐらいになるのではないかと思う。ぼくは彼の貼り絵やペン画がとても好きなのである。

 だが、かつてテレビで芦屋雁之助が演じていた「裸の大将放浪記」は、ほとんど見た覚えがない。最近またキャストを変えて放送されているようだが、そちらも見ていない。

 もちろん彼が軽度の知的障害を有していて、学園を抜け出して各地で放浪の旅(自分では“るんぺん”といっている)を重ねたことは知っていたし、そのころを回想して書かれた文章を読んだこともある。しかしぼくの頭のなかでは、山下清はあくまで素晴らしい貼り絵作家であり、第一級の美術家であって、それ以外の誰でもなかったのだ。

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 今回の展覧会を知ったのは、電車の吊り広告によってだった。しかも会期はすでにはじまっていて、残り幾日もない。ぼくは焦ってしまった。

 美術鑑賞を趣味とする人間は、当然ながら各地の展覧会情報に敏感になっているし、ひとたび美術館に出かけると他の展覧会のチラシをたくさん仕入れて帰ってくるのが普通だろうと思うが、ぼくはどの場所でも山下清展の告知を一度も見かけなかった。いつもよく利用するアート関係のサイトにも、まったく触れられていなかった。

 不意を突かれたようなかたちで、大慌てでスケジュールの調整にかかったが、週末は一日も空きがなく、やむを得ず平日の夜勤帰りに立ち寄ることにした。その日は展覧会の最終日で、なおかつ春休みの真っ最中だったが、朝早く行けばまあ快適に観られるだろう、などと気楽に考えていた。

 ところが、オープンしてから10分後に会場に着いてみると、チケット売場に列ができるほどの大盛況である。しかもその多くが、小学生ぐらいの子供を連れている。どうにか中に入ってはみたものの、遅々として前に進まない。山下清の人気のほどを、改めて痛感しないわけにいかなかった。

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 テレビでしか知らない画家の作品を、家族連れで観にくるのはいいことだ。でもその日の客には、文句のひとつもいいたくなるような人が少なくなかった。子供は指で絵をなぞるし(もちろんガラスは入っているが)、親もそれを叱るどころか、一緒になって指でなぞったりしているのである。ぼくは注意することもできず、ひやひやしながら見ているしかなかったが、この親子連れは、普段まったく展覧会に出かけることはないのだろう、ということがよくわかる。

 裸の大将として有名になってしまった、山下清。その存在は、今や国民的ともいえる。しかし彼の作品が、純粋に“美術”の文脈から語られることは、あまりないのではあるまいか。いやむしろ、美術界からは黙殺されているのではなかろうか。ふと、そんな疑問が浮かぶ。

 会場をみたしているこの人たちも、絵画が好きというのとは別の理由で集まっているのにちがいない。美術に関心のない人々をも惹きつける山下清の絵とは、いったい何なのだろう。人込みに揉まれて辟易し、早々に展覧会場を出たぼくは、ぼんやりとそんなことを考えた。

 それはマスメディアの力であるかもしれないし、ドラマによって作り上げられたイメージがひとり歩きしているだけかもしれない。ドラマの内容が事実のとおりではなく、かなり脚色されていることは、いうまでもないことだ。しかしほとんどそのドラマを見たことのないぼくは、いかなる先入観もなく清の絵と向き合ってみたい。そうすれば、ひとりの人間が画家として成熟してゆく姿を、作品をとおしてまざまざと感じることができるように思うのである。

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