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てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

宮殿からの豪華な団体客 ― エルミタージュの美に触れる ― (6)

2012年12月10日 | 美術随想

ペーテル・パウル・ルーベンス『ローマの慈愛(キモンとペロ)』(1612年頃)

 ルーベンスの『ローマの慈愛(キモンとペロ)』には、ちょっとびっくりするような場面が描かれている。手枷をはめられた囚人とおぼしき男が、こともあろうに、若い女の乳にむしゃぶりついているのだ。

 だが、これにはもちろん、あるストーリーが付随している。投獄され餓死の刑に処せられたキモンという男が、娘ペロの母乳を飲むことで命をながらえた、というもの。絵のタイトルにあるとおり、これは決して淫靡な話などではなく、親子のあいだを結びつける慈愛の物語なのだ。

 けれども、頭ではそうとわかっていても、なかなか簡単には納得しかねる側面があることも事実である。ちょうどぼくがこの絵の前に立っているとき、すぐ横にいた女性がこんな感想をもらすのが聞こえた。

 「餓死の刑っていったって、この男の人は飢えてるように見えないじゃない。ずいぶんたくましそうだし」

 この意見は、まさに絵の矛盾点を見事に突いているというべきだろう。ルーベンスは、現在では肥満のひとことで片付けられてしまいそうな豊満な女性像を多く描いたことで知られている。男性を描くときも、やはり肉付きがよく、力強い姿に描く傾向があった。がりがりに痩せ細った人物像など、ルーベンスには似合わない。

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 しかしながら、こういった矛盾は、多かれ少なかれ芸術にはつきものなのだろう。暗黙の了解というか、誰もが心の奥底では疑問に思っているけれど、あえてそれを表には出さないという流儀があるように思われる。

 たとえば、オペラがその端的な例だ。主演を務めるほどの声量豊かな女性歌手は、どうしてもふくよかな人が少なくない。しかし彼女が演じる役というのが悲劇のヒロインだったりすると、ちょっと話はややこしい。

 有名な『椿姫』の主役ヴィオレッタは、再終幕には病床に伏した姿で登場する。彼女は結核を患っていた、ということになっている。しかし「こんなに痩せてしまって・・・」などと歌うと、歌手の体型によっては会場から笑いが起こるという話を聞いた。歌っている当人はさぞや傷つくことだろうが、役作りなどと称してダイエットをしてしまうと、オペラ歌手として必要な声の質が変わってしまうかもしれないし、長丁場の舞台を演じきるだけのスタミナを失ってしまうかもしれない。難しいものだ。

 この際、罪のない歌い手に究極の選択を迫るのではなく、ヴィオレッタは“見る影もなく痩せている”ということにしてしまおう、と考えるのがやはり賢明な判断だというべきだろう。そういった一種の譲歩が、芸術作品と鑑賞者とが良好な関係を結ぶためには、ときとして必要とされるのである。

 ルーベンスは、はち切れんばかりの肉体に包まれた裸婦像を描いた。それが現代の美の基準とはかけ離れているからといって、ルーベンスの絵が美しく見えないようでは、西洋の名画を素直に味わう機を逸してしまう。

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 話を少し飛躍させるなら、ぼくは父親に乳房を差し出すペロという娘の横顔に、聖母にも似た慈愛の表情をみる。後ろ手に縛られた父親は、威厳も何もかなぐり捨てて、娘の善意に飛びつくしかない。その必死さと、哀れなほどの滑稽さ・・・。しかし、窮地から立ち直って懸命に生きようとする人は、得てしてそういうものではなかろうか。

 体型の問題点を別にして、この絵は人間の真理を鋭く見通した絵であるようにぼくには感じられた。娘の前でえらそうに振る舞う癖のある現代の父親は、将来自分が助けを求める立場となったときのために、キモンの心の状態をよくよく考えておく必要があるだろう。

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