てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

画家として死ぬということ(3)

2007年08月03日 | 美術随想


 坂本繁二郎(はんじろう)は、青木繁と同じ年に、同じ久留米の町で生まれている。彼らは一緒に写生旅行に出かけるほど親しい友人であり、同志であり、そしてライバルでもあった。青木が志なかばで没したあと、彼の遺作展を開くために奔走し、前項の『朝日』を青木の絶筆であるとしたのは、坂本である。

 しかしこのようなことは、彼らについての文献を読んだりしてはじめてわかることだ。一見しただけでは、坂本と青木の絵にはほとんど何の共通点もない。もちろん、28歳で夭折した青木と、87歳の天寿をまっとうした坂本とを単純に比較することはできないだろう。坂本は、青木が果たせなかったフランス留学も経験しているし、のちに文化勲章を受章するなど、公的にも高く評価された人物である。

 だが、このような条件のちがいを除いて考えても、坂本と青木の画風はあまりにかけ離れているように思われる。奔放な想像力にみちた神話の世界を描き、劇的な人物像を荒々しくキャンバスに刻みつけた青木に対し、坂本が好んで描いたのは、優雅で思慮深い馬の姿だった。ぼくは彼の絵をそれほどたくさん観てきたわけではないが、やはり坂本繁二郎といえば、真っ先に馬の絵が頭に浮かぶ。

 彼には、ごく身近なものと真摯に向き合った静物画もある。京都の美術館には『砥石』という絵があるが、文字どおり砥石だけを描いた素朴な絵だ。そこには何のてらいもなく、こんなものが絵の題材になり得るのかという気がするが、それでも坂本が描くと、他の誰でもない坂本だけの砥石になっているのである。絵の片隅にひらがなで書き込まれた「さかもと」という署名も、実直な彼の人柄をあらわしているようで興味深い。

                    ***

 坂本繁二郎の絵画は、初期のものを除いて、坂本トーンとでもいうべき独特の色調で統一されている。観る者の心をあかあかと照らすような暖色系の色は、彼の絵の具箱にはなかったようだ。反対に、黒々と沈んだ色もほとんど用いていない。すべてがその中間で、まことに曖昧な、どっちつかずの色で塗られている。いわば、声高な自己主張をしないのである。

 そのマチエールも、対象のふところまでずかずかと踏み込んでいくことはない。ピントのずれた写真のように、細部は粗い粒子の中に拡散してしまっている。しかしそこには、たとえようもない色彩の調和がのぞいているのだ。まるでシャボン玉の被膜をとおして眺めたような、デリケートで夢幻的な世界である。

 坂本は青木繁の追想の中で、青木の絵を「まがいの絹物の肌触り」などと評している。青木のダイナミックな画風は、あまりにも繊細な魂の上に貼られたメッキであることを、親友の彼は見抜いていたのかもしれない(『海の幸』の絵の具が本当に退色してしまったのだとしたら、坂物の言葉は単なる比喩ではないことになる)。坂本自身は、そのような大振りの構えを嫌った。長い時間をかけて磨きこんだ茶碗がおのずと光りはじめるように、彼の絵は不思議な光沢をたたえている。

 晩年、坂本は夜空に浮かぶ月を繰り返し描いた。その最後のものとなった『幽光』(上図)は、一見するとほとんど何を描いたかわからないほど控えめな表現だ。だが、彼が描きつづけてきた色彩の交響楽は、ますますその深みをましているように、ぼくには思える。

(石橋財団石橋美術館寄託)

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