豊饒なるルーベンス その4
ペーテル・パウル・ルーベンス『ロムルスとレムスの発見』(1612-1613年頃、カピトリーナ絵画館蔵)
展覧会のチケットやポスターに使われていたのは、『ロムルスとレムスの発見』という絵だった。手前に座っているふくよかな幼児たちが、その双子の兄弟である。彼らはローマ建国の父のようにいわれていて、ローマという名前もそこに由来しているのだろう。
知ってのとおり、ここ日本の神話では、神様の胎内から島々が生まれたということになっている。それに比べれば、兄弟たちの手によって都市が築かれたなどという話は、あまりに現実的すぎるような気がしないでもない。いや、さしあたって今は、ローマの生い立ちについてはよく知らなくても構わない。ぼくがこの絵から思い出したのは、昔からしばしば噂になった“狼少年”ないしは“狼少女”、つまり狼に育てられた人間の子供の物語である。
そういったエピソードが事実なのか、それともでっち上げなのかはわからない。ただ、彼らの元祖は、明らかにロムルスとレムスに帰着するように思われる。この絵のなかで、ふたりの子供の横にいるのは、親代わりとなって彼らを育てた雌の狼なのだ。中央の子供は、狼の腹の下にもぐり込むようにして、乳を飲んでいるところである。まさに、子育ての真っ最中というところか。
***
ただ、妖怪もどきのようにとらえられることの多い現代の“狼少年”の話と根本的にちがうのは、この驚くべき場面が実に牧歌的に、まるで郊外でのピクニックのワンシーンのように楽しげに描かれている点だ。野生の乳を飲み、キツツキが運んできたサクランボを食べるなど、ある意味ではわれわれ以上に自然の滋味を満喫しているともいえる。
なお絵の左端に描かれている老人と若い女性は、川の擬人像(腰の下の甕のなかから水が流れ出している)とニンフの姿らしく、現実の人間ではない。いってみればこういうシチュエーションを逆手に取って、人間を妖精のように裸で描き出したのがマネの『草上の昼食』ということになるわけだが、ここではさしあたって“眼に見えないもの”と見なしておいてもいいかもしれない。
けれども、ぼくはこの年の離れた男女と、まるまるとした双子の兄弟と、狼と、サクランボを運んできてくれるキツツキとが、バラエティーに富んだ大家族のような感じがして仕方がなかった。彼らが人知れず楽しんでいるところを、羊飼いがたまたま覗き込んだことによって“発見”され、そこからローマ建国への波瀾の歴史がはじまる。それと引き換えに、神々は物語のなかへ、あるいは絵画のなかへと戻っていかざるを得ないのだ。
***
ペーテル・パウル・ルーベンス『眠る二人の子供』(1612-1613年頃、国立西洋美術館蔵)
ほとんど同じころに描かれた『眠る二人の子供』も、まるで双子のようによく似ている。だが、そうではないらしい。これらは画家の兄の子にあたるクララとフィリップだという。年子であり、名前からすると片方は女の子のはずである(どちらかはわからない)。
実は彼らが生まれた直後、ルーベンスの兄は亡くなってしまったそうだ。この絵が描かれたシチュエーションは不明だが、父を失ったばかりの、けれどもそれを自覚してはいない無邪気な寝顔をとらえた一枚ということになる。ただ、右側の子は薄眼を開けていて、せつなげに虚空を見つめているようにも思える。
愛くるしさの裏側に、彼らがこれから直面しなければならない人生の苦難が、うっすらと透けて見える。この絵の前で「可愛い」という感想をもらした人は多いだろうが、ルーベンスはただ可愛いだけの子供を描いたわけではなかった。
つづきを読む
この随想を最初から読む
ペーテル・パウル・ルーベンス『ロムルスとレムスの発見』(1612-1613年頃、カピトリーナ絵画館蔵)
展覧会のチケットやポスターに使われていたのは、『ロムルスとレムスの発見』という絵だった。手前に座っているふくよかな幼児たちが、その双子の兄弟である。彼らはローマ建国の父のようにいわれていて、ローマという名前もそこに由来しているのだろう。
知ってのとおり、ここ日本の神話では、神様の胎内から島々が生まれたということになっている。それに比べれば、兄弟たちの手によって都市が築かれたなどという話は、あまりに現実的すぎるような気がしないでもない。いや、さしあたって今は、ローマの生い立ちについてはよく知らなくても構わない。ぼくがこの絵から思い出したのは、昔からしばしば噂になった“狼少年”ないしは“狼少女”、つまり狼に育てられた人間の子供の物語である。
そういったエピソードが事実なのか、それともでっち上げなのかはわからない。ただ、彼らの元祖は、明らかにロムルスとレムスに帰着するように思われる。この絵のなかで、ふたりの子供の横にいるのは、親代わりとなって彼らを育てた雌の狼なのだ。中央の子供は、狼の腹の下にもぐり込むようにして、乳を飲んでいるところである。まさに、子育ての真っ最中というところか。
***
ただ、妖怪もどきのようにとらえられることの多い現代の“狼少年”の話と根本的にちがうのは、この驚くべき場面が実に牧歌的に、まるで郊外でのピクニックのワンシーンのように楽しげに描かれている点だ。野生の乳を飲み、キツツキが運んできたサクランボを食べるなど、ある意味ではわれわれ以上に自然の滋味を満喫しているともいえる。
なお絵の左端に描かれている老人と若い女性は、川の擬人像(腰の下の甕のなかから水が流れ出している)とニンフの姿らしく、現実の人間ではない。いってみればこういうシチュエーションを逆手に取って、人間を妖精のように裸で描き出したのがマネの『草上の昼食』ということになるわけだが、ここではさしあたって“眼に見えないもの”と見なしておいてもいいかもしれない。
けれども、ぼくはこの年の離れた男女と、まるまるとした双子の兄弟と、狼と、サクランボを運んできてくれるキツツキとが、バラエティーに富んだ大家族のような感じがして仕方がなかった。彼らが人知れず楽しんでいるところを、羊飼いがたまたま覗き込んだことによって“発見”され、そこからローマ建国への波瀾の歴史がはじまる。それと引き換えに、神々は物語のなかへ、あるいは絵画のなかへと戻っていかざるを得ないのだ。
***
ペーテル・パウル・ルーベンス『眠る二人の子供』(1612-1613年頃、国立西洋美術館蔵)
ほとんど同じころに描かれた『眠る二人の子供』も、まるで双子のようによく似ている。だが、そうではないらしい。これらは画家の兄の子にあたるクララとフィリップだという。年子であり、名前からすると片方は女の子のはずである(どちらかはわからない)。
実は彼らが生まれた直後、ルーベンスの兄は亡くなってしまったそうだ。この絵が描かれたシチュエーションは不明だが、父を失ったばかりの、けれどもそれを自覚してはいない無邪気な寝顔をとらえた一枚ということになる。ただ、右側の子は薄眼を開けていて、せつなげに虚空を見つめているようにも思える。
愛くるしさの裏側に、彼らがこれから直面しなければならない人生の苦難が、うっすらと透けて見える。この絵の前で「可愛い」という感想をもらした人は多いだろうが、ルーベンスはただ可愛いだけの子供を描いたわけではなかった。
つづきを読む
この随想を最初から読む