動物について その1
資料や文献に深入りすることなく、純粋に絵を見つめよう、などとこの連載の最初に書いたが、ぼくは美術を専門に勉強したことはないので、いわゆる“物の本”は手放すことができない。いやもっと正直にいうと、多少は寄りかかりたくなることもある。そんな中で、榊原悟氏の『日本絵画のあそび』は実におもしろい一冊だ。
辻惟雄氏の『奇想の系譜』が、美術史上でそれまで傍流とされてきた画家たちを拾い上げ、ひとりひとりの個性にスポットライトをあててみせたのに対して、榊原氏は描かれたイメージそのものに目を向け、有名無名を問わず類似の画題を探し集める。そうすることで、江戸絵画というものが突出した少数の才人によって担われてきたものではなく、時代をまるごと飲み込むような大きな流れとなって見えてくるのである。
いわば辻氏の著作が時代の縦軸とすれば、榊原氏のは横軸、あるいは断面図とでもいおうか。江戸庶民に ― 絵師だってもちろん庶民だ ― 広く共有されたイメージを読み解くことによって、その時代の背景や流行、生活観といったものが浮かび上がってくるのである。いいかえれば、絵画は時代の証人たり得るということでもある。
***
長沢芦雪の『白象黒牛図屏風』(プライスコレクション、上図)と、例の伊藤若冲の『鳥獣花木図屏風』(次項参照)が同じ展覧会に出品されているのを観ると、はたして江戸時代には象がいたのだろうか、と思えてくる。この二枚のほかにも、象が描かれた江戸絵画というのは意外に少なくなく、若冲には『白象群獣図』(個人蔵、下図)という絵もある。もし当時の画家たちが象をつぶさに見る機会を与えられたとしたら、そのユニークな姿をこぞって絵に描くであろうことは、じゅうぶんに想像できることだ。
だが一見してわかるように、彼らが描いたのは白い象である。今では動物園やサファリパークでいくらでも象を見ることができるが、白い象などというものは見たことがないし、世界中探しても簡単には見つからないのではあるまいか。何でも、ごくまれに突然変異で白い象が生まれることがあるという話だが、若冲や芦雪が実際に白い象を見たとは思われない。彼らが描こうとしたのは、やはり普賢菩薩がお乗りになっている白象であったと考えるのが自然だろう(伊藤若冲『釈迦三尊図』のうち「普賢菩薩」、相国寺、下図左、部分)。俵屋宗達が寺院に白象の絵を描いたりしているのも、やはり仏教と縁の深い動物だからである(『白象図杉戸絵』養源院、下図右)。それはすなわち、白象は唐獅子や麒麟などと同様、想像上の動物だということにもなる。
しかし芦雪の描いた白象を観ると、あまりにも現実的すぎはしないだろうか。その首まわりのたるみ、長い鼻のたるみ、太い足のたるみ ― たるみばかりで申しわけないが ― つまり象の皮膚の弛緩した感じが、これほどリアルに表現されているのに驚くのである。宗達の描いた白象にもたるみは描かれているが、やや様式化されているといわざるを得ない。そして若冲にいたっては、ほとんどまったく描かれていないのである。これはいったいどういうことであろう?
***
芦雪は、実は本物の象を見たことがあったのではないかというのが、ぼくの推察である。そうでなければ、こんなに写実的な象を描けるわけはないと思うのだ。これは何も荒唐無稽な空想ではない。最初に紹介した榊原悟氏の著書によると、江戸時代の日本に、象は確かに“いた”のである。
《本物の生きた象が、蘆雪の生まれるわずか二十数年前の享保十三年(一七二八)、オランダ船によって日本にもたらされている。長崎から山陽道、京都を経、江戸にまで運ばれ、そこで将軍吉宗(一六八四~一七五一)の上覧にも供されているのだ。このおり、象の行く先々で実際に象を目の当たりにした日本人はかなりの数にのぼったに違いない。しかも象を見るのは初めてである。その驚きはいかばかりであっただろうか。それは、パンダを初めて見た現代の我々以上の驚きであったことは疑いない。》(『日本絵画のあそび』岩波新書)
この最後の一行などは、深く納得できる。ぼくも何かのおりに、長い列を作ってパンダやコアラを見たことがあるが、それほど驚きも感動もしなかった。彼らが物見高い人間たちに愛想を尽かしていたせいもあるだろうが、それ以前にぼくたちはテレビを通じてパンダやコアラのことをよく知っていたのである。しかし江戸時代の人たちは、聖獣として描かれた高貴な純白の象しか知らなかっただろう。いざ目の前にあらわれた灰色の、皮膚のたるんだ、ときには巨大な糞をひり出す生きた象の姿を、人々があっけにとられて見送ったであろうことはじゅうぶん想像できるのである。
***
もちろん、芦雪が本当に象を見たという保証はない。『白象黒牛図屏風』では、象はやはり白象として描かれている。しかし題名からもわかるように、これは左隻の黒い牛と対比させるためだし、その山のような背中には ― 鳳凰や孔雀ではなく ― 二羽の烏がとまっているが、これは大きいものと小さいものを対比させるためでもある(このことに関しては榊原氏の本に詳しい)。ここに描かれている象は、半分は聖なる姿で、半分は人々を瞠目させた珍獣の姿である。これがおそらく、当時の江戸庶民に共通した認識だったのかもしれない。
芦雪は実際に象を見てこの絵を描いたと、ぼくが思いたいのは、象の目があまりに優しく描かれているからである。若冲の象と比べて極端にちがうのは、この目の表現だ。現代のぼくたちは、象がどんなに優しい目をしているかを知っている。芦雪もきっと、それを知っていたにちがいないと思うのである。
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資料や文献に深入りすることなく、純粋に絵を見つめよう、などとこの連載の最初に書いたが、ぼくは美術を専門に勉強したことはないので、いわゆる“物の本”は手放すことができない。いやもっと正直にいうと、多少は寄りかかりたくなることもある。そんな中で、榊原悟氏の『日本絵画のあそび』は実におもしろい一冊だ。
辻惟雄氏の『奇想の系譜』が、美術史上でそれまで傍流とされてきた画家たちを拾い上げ、ひとりひとりの個性にスポットライトをあててみせたのに対して、榊原氏は描かれたイメージそのものに目を向け、有名無名を問わず類似の画題を探し集める。そうすることで、江戸絵画というものが突出した少数の才人によって担われてきたものではなく、時代をまるごと飲み込むような大きな流れとなって見えてくるのである。
いわば辻氏の著作が時代の縦軸とすれば、榊原氏のは横軸、あるいは断面図とでもいおうか。江戸庶民に ― 絵師だってもちろん庶民だ ― 広く共有されたイメージを読み解くことによって、その時代の背景や流行、生活観といったものが浮かび上がってくるのである。いいかえれば、絵画は時代の証人たり得るということでもある。
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長沢芦雪の『白象黒牛図屏風』(プライスコレクション、上図)と、例の伊藤若冲の『鳥獣花木図屏風』(次項参照)が同じ展覧会に出品されているのを観ると、はたして江戸時代には象がいたのだろうか、と思えてくる。この二枚のほかにも、象が描かれた江戸絵画というのは意外に少なくなく、若冲には『白象群獣図』(個人蔵、下図)という絵もある。もし当時の画家たちが象をつぶさに見る機会を与えられたとしたら、そのユニークな姿をこぞって絵に描くであろうことは、じゅうぶんに想像できることだ。
だが一見してわかるように、彼らが描いたのは白い象である。今では動物園やサファリパークでいくらでも象を見ることができるが、白い象などというものは見たことがないし、世界中探しても簡単には見つからないのではあるまいか。何でも、ごくまれに突然変異で白い象が生まれることがあるという話だが、若冲や芦雪が実際に白い象を見たとは思われない。彼らが描こうとしたのは、やはり普賢菩薩がお乗りになっている白象であったと考えるのが自然だろう(伊藤若冲『釈迦三尊図』のうち「普賢菩薩」、相国寺、下図左、部分)。俵屋宗達が寺院に白象の絵を描いたりしているのも、やはり仏教と縁の深い動物だからである(『白象図杉戸絵』養源院、下図右)。それはすなわち、白象は唐獅子や麒麟などと同様、想像上の動物だということにもなる。
しかし芦雪の描いた白象を観ると、あまりにも現実的すぎはしないだろうか。その首まわりのたるみ、長い鼻のたるみ、太い足のたるみ ― たるみばかりで申しわけないが ― つまり象の皮膚の弛緩した感じが、これほどリアルに表現されているのに驚くのである。宗達の描いた白象にもたるみは描かれているが、やや様式化されているといわざるを得ない。そして若冲にいたっては、ほとんどまったく描かれていないのである。これはいったいどういうことであろう?
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芦雪は、実は本物の象を見たことがあったのではないかというのが、ぼくの推察である。そうでなければ、こんなに写実的な象を描けるわけはないと思うのだ。これは何も荒唐無稽な空想ではない。最初に紹介した榊原悟氏の著書によると、江戸時代の日本に、象は確かに“いた”のである。
《本物の生きた象が、蘆雪の生まれるわずか二十数年前の享保十三年(一七二八)、オランダ船によって日本にもたらされている。長崎から山陽道、京都を経、江戸にまで運ばれ、そこで将軍吉宗(一六八四~一七五一)の上覧にも供されているのだ。このおり、象の行く先々で実際に象を目の当たりにした日本人はかなりの数にのぼったに違いない。しかも象を見るのは初めてである。その驚きはいかばかりであっただろうか。それは、パンダを初めて見た現代の我々以上の驚きであったことは疑いない。》(『日本絵画のあそび』岩波新書)
この最後の一行などは、深く納得できる。ぼくも何かのおりに、長い列を作ってパンダやコアラを見たことがあるが、それほど驚きも感動もしなかった。彼らが物見高い人間たちに愛想を尽かしていたせいもあるだろうが、それ以前にぼくたちはテレビを通じてパンダやコアラのことをよく知っていたのである。しかし江戸時代の人たちは、聖獣として描かれた高貴な純白の象しか知らなかっただろう。いざ目の前にあらわれた灰色の、皮膚のたるんだ、ときには巨大な糞をひり出す生きた象の姿を、人々があっけにとられて見送ったであろうことはじゅうぶん想像できるのである。
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もちろん、芦雪が本当に象を見たという保証はない。『白象黒牛図屏風』では、象はやはり白象として描かれている。しかし題名からもわかるように、これは左隻の黒い牛と対比させるためだし、その山のような背中には ― 鳳凰や孔雀ではなく ― 二羽の烏がとまっているが、これは大きいものと小さいものを対比させるためでもある(このことに関しては榊原氏の本に詳しい)。ここに描かれている象は、半分は聖なる姿で、半分は人々を瞠目させた珍獣の姿である。これがおそらく、当時の江戸庶民に共通した認識だったのかもしれない。
芦雪は実際に象を見てこの絵を描いたと、ぼくが思いたいのは、象の目があまりに優しく描かれているからである。若冲の象と比べて極端にちがうのは、この目の表現だ。現代のぼくたちは、象がどんなに優しい目をしているかを知っている。芦雪もきっと、それを知っていたにちがいないと思うのである。
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比較的最近、仙台市博物館で特別展「大江戸動物図館」を観ました。そこには若冲の「白象群獣図」をはじめ、13点の江戸時代の象図が出展されていました。
そこで知ったことの受け売りですがご参考まで。
1.記録によれば日本への象の渡来は室町時代にさかのぼる。
2.1728年に長崎へきた2頭の象は、象の渡来としては5番目である。
3.この象のうち1頭はは江戸中野村で1742年まで生きていた。
4.その間におびただしい数の象図が描かれた。
5.その次に象がオランダ船で来日したのは1813年。長崎で多くの版画や絵画に描かれたが、入国を拒否され本国に返された。
若冲(1716-1800)は1728‐1742年の象をじかに見た可能性がありますが、芦雪(1754‐1799)は多くの象図は見ているでしょうが、直接に象を観た可能性は?ではないでしょうか。
芦雪が実際に象を見た可能性はないかもしれませんが、しかしながら若冲が描いた象よりも、芦雪の象の方に真実味を感じたというのが、ぼくの正直な感想でした。