杉原千畝氏は日本のシンドラーと呼ばれているが、シンドラーは、ユダヤ人を自分の経営する工場で、奴隷労働させるために助け、後に同情的になっただけだ。
杉原氏は、人道的な見地からユダヤ人を救った、もし杉原氏がいなかったら、間違いなく大勢のユダヤ人が殺されていた。
当時日本はドイツと同盟関係にあり、表向にはユダヤ人の救出など出来ない。
杉原氏の功績は、当時、日本政府の意向を独断で無視した、いわば個人的な人道行為であったとされてきたが、
しかし、当時の日本政府が、同盟国ドイツからの強い抗議を無視して、半ば公然とユダヤ人の救出にあたったと言う事実が、次第に明らかになってきた。
杉原氏は1930年代にハルピンの満州国外交部におり、その後、彼の後ろ盾となったのが、山脇正隆大将だったと言われる。
すなわち日本が、領事とか公使館レベルではなく、陸軍省とか外務省のレベルでユダヤ人の救出作業を
行い1万人あまりに達した。
杉原氏以外にもっと大規模にユダヤ人の救済に奔走した人物がいたと言われる。
1938年当時、関東軍ハルビン特務機関長であった、樋口季一郎少将である。
1938年3月、ドイツからシベリア鉄道経由で約2万人のユダヤ人を樋口少将は、南満州鉄道の松岡洋右総裁に救援列車を要請し、12両編成の列車13本を出動したと言われる。
この救出劇は、当然のように、ドイツ外務省より厳重な抗議を受けた。
このため、当時の参謀長、東条英機中将が樋口少将を参謀本部へ呼びつけ、樋口少将は東条参謀長に持論の正当性を熱心に説明したところ、
東条参謀長に受け入れられ、樋口少将の行為は不問に付されることとなったと言う。
樋口少将が、この人道的行動に出た背景には、ヨーロッパ駐在武官をしていた頃、当時の日本人に対する差別が相当あり、
ドイツなどでは普通の家庭に泊めてもらえなかった。そんなとき温かく迎えてくれたのがユダヤ人の家庭だった為、「昔の恩を返すのが当たり前と言う気持ちだった」と自ら語った。
更に日本には、国家なきユダヤ人に国家を与える為、5万人のユダヤ人を満州へ受け入れる移住計画まであった。
1938年12月、日本政府の最高方針を決める五相会議において、
「ユダヤ人を排斥する事は、我が国が多年に渡り主張してきた人種平等の原則に反する」、
「日本は満州、中国に居住するユダヤ人を排撃することなく、他の外国人と同等に扱う」
などを宣言し、日本政府として、満州や日本国内にいるユダヤ人を擁護する事を正式に決めていた。
日本国内や満州に、ユダヤ人避難民を救援するユダヤ人組織がすでにできていたのはその為である。日本の保護のもとで、一人のユダヤ人も殺害されていない事は明記すべき事実である。
戦後悪辣非道といわれる日本軍だが、八紘一宇の名の下に人種差別をしない、人権派が多いことも驚きだ。
アンネの日記の書籍を毀損することなどこの頃の日本人には起きるはずもなく、もしかりに日本人の仕業だとすれば、日本軍を貶める現代日本人の方が余程悪辣非道だとの思いを禁じ得ない。
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