百醜千拙草

何とかやっています

日本の私

2016-09-13 | Weblog
日本人であるとは何か、ということを小さい時から折々に考えることがありました。正直、こういうことを考えて気持ちが明るくなったためしはありません。
幸せに毎日を生きている人なら、自分が何人ということを気にするはずもないと思います。日本人である私、ということを悩むこと自体、日本人であることに満足していないということでしょうし。戦後の豊かで安全な国に生まれて、物質的には恵まれた中で育ったわけで(最近の若い人は気の毒だと思います)私などが不満を言えばバチあたりと言われるでしょう。かつて朝日新聞で、「日本に生まれて幸せか」という連載コラムがありました。人間というものは、物質的に豊かでなければ不平を言い、豊かであれば豊かなりに不平を言う生き物のようです。

私には、日本人を意識することとは、中国とアメリカという二つの国に対する劣等感(仮に劣等感でなくても常に意識せざるを得ない相手)に縛られていることを実感することであるというように感じます。これは別に中国人やアメリカ人に劣等感を抱いているというわけではなく、日本が今の形の日本であることへ対してのこれらの国の影響力の大きさを抜きに、日本人とはなにかを考えることはできないということです。すなわち日本人は、歴史的、世界的に見れば、その根本は辺境民であり、常に諸外国の顔色を伺うことで自己を認識してきたということが、若い頃は悔しかったわけです。島国根性という言葉もありましたね。

そんな多少いじけた屈折した思いが、開国以来の日本にあったのだろうと思います。大和魂とかいう言葉もありました。かつて、鈴木大拙は、日本はまだまだ欧米諸国に物質的には及ばないがその精神性の高さは優れていると、負け惜しみのようなことを言いました。しかし、よく考えれば、その精神性とは1000年前の中国で発展した中国仏教に基づいたものでした。

日本人のアイデンティティーとは何か、若い頃は多少、考えたものですが、もう最近はそんなことを思うこともあまり無くなりました。ま、自分の民族や国に誇りを持ちたいという気持ちも突き詰めれば、結局はエゴに過ぎないわけですし。Natureに論文を載せたい、新聞に研究を取り上げてもらいたい、大学教授になって先生と呼ばれたい、、、中国には負けたくない、、、オリンピックでは日の丸を掲げたい、、、自分の子供は偉くなってもらいたい、、、ま、同じようなものですな。私は、別段、世界征服したいとかいうような野望もありませんし、仮にNatureに論文が載ったところで、もはや人生がそれほど変化することも考えられないし、別に自分は何人でもいいや、死ぬまで淡々と楽しく日々を過ごすことに集中しようという気分です。

いずれにせよ、これらのかつての中国や欧米に対する劣等感は、抑圧され無意識化され、いまだに我々の年代の日本人を縛り続けているようには感じます。ただ、この傾向は若い世代では随分、薄れてきているように思います。あるいは、実はアイデンティティーの「軽さ」こそが日本人のアイディンティーなのかも知れません。

どうでも良い話でした。
今週から学会なので、しばらくお休みします。
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