百醜千拙草

何とかやっています

レンガの壁

2013-05-28 | Weblog
前回の話で思い出した「姥捨て山」、いろいろなバージョンがあるようですけど、どうも実話というよりは、寓話的要素の強い民話という感じですね。もっとも多いのは、老人嫌いで「姥捨て」の制度を作った領主が、隣の領主に難しい問題を出され、解決できなければ攻め込むと脅かされるというパターンです。ある親孝行な息子が姥捨ての掟を破ってこっそり老母(または、父)をかくまうのですが、親の知恵でその問題を解いて、領主の窮地を救います。そして窮地を救ってくれたのが実は老人の知恵であったことを知った領主が改心する、という筋です。お年寄りには経験と智恵があるので、お年寄りを敬い、大事にしよう、という話のようです。
 対して、楢山節考で示される話は、本来の寓話的要素を除き、生きることの過酷さやそれを通じて浮かび上がる情愛を描いています。実際、私たちは、それぞれの環境に生まれて、人生が始まり、いろいろ経験して、死んで行くわけですが、人生、何一つ、自分の思い通りには行きません。否応なく与えられる、生老病死、の四苦の中で、我々はもがき苦しむ一生を送ります。なんとか自分の意志でできることは、死ぬことぐらいでしょうが、自分で死ぬのもいろいろ大変なようです。その何一つ自由にならない不便な人生のなかで、いかに「生まれて、苦労して、結局、死んで行くこと」に「意味」を見いだすか、というのがこの人生という名のゲームの本質なのでしょう。

私も最近、先のことを考えることが多くなりました。先のことと言えば、若い時は、漠然とした明るい(?)将来のことでしたが、最近はそういうことは考えなくなりました。何となく残っている人生がどんなものか想像できるようになってきたということです。

朝、目が覚めると、ああ、今日も生きて目が覚めた、と思うことがあります。後、何回、生きて目が覚めるのかな、と勘定しようとしてみたりすることもあります。寝ている間に死んでしまったら、目が覚めても、死んだことに気がつかないかも知れません。私は死んでも人間の魂は生き続け、肉体の死が終わりではないと思っているのですが、死ぬときの心配はします。死んだ後の自分の死体の始末とかは自分ではできないので、誰かにやってもらわないといけないのです。やってもらう人に気の毒だなあなどと思います。

先週末に安売り屋で深く考えずに本を一冊買いました。それは、Randy Pauschの同僚に人が書いたものでした。名前に聞き覚えがあったのですけど、その時はよく思い出せず、パラパラと読み始めて、記憶が戻りました。このサイトにリンクにありますが、数年前のカーネギーメロン大学での最終講義のビデオが、当時、大反響を呼んで、私も見たことを思い出しました。
Randy Pausch Last Lecture: Achieving Your Childhood Dreams

Steve JobsのStanfordでのCommencement Speechも大反響がありましたが、共通点がありますね。どちらも、すい臓がんで亡くなりました。そしてその迫る死に際して、彼らの示したポジティブな姿勢は勇気づけられるものでした。

余命、数ヶ月の末期がんである、という事実に対して、Randyは最初にこう言います。「私は、その事実を否定しようとはしていない。現実は現実であり、それを自分が変えることはできない(現実には勝てないということですね)。自分がすることは、現実を直視して、それにどう反応するかを決めることだ」
 理屈ではその通りです。しかし、まだ小さい子供と伴侶がいて、家族のために郊外に家を買ったばかりの人間に与えられた数ヶ月の余命という現実は、素直に受入れるには、余りに残酷なものです。私だったら、どうするだろうか、と想像しました。少なくとも、口ではRandyと同じことを言うでしょう。しかし、そう理性的に考えるということと、理性が感情よりも優位に立って、感情をコントロールできるということは全くの別問題です。むしろ、理性が感情をコントロールすることなど、本当はできないだろうと私は思います。人生の様々な困難や苦しみに際して、どう心の平安を得るか、それこそが古今の宗教が追求してきたことで、簡単に理屈でどうにかなるものではありません。

Randyのようにクールにポジティブに尊厳をもって死んで行ければ素晴らしいです。でも、ジタバタと死にたくないと泣きながら死んで行ってもいいじゃないかとも思います。そもそも、私のような未熟者が、死ぬときのことを心配する方がおこがましい、と孔子に言われそうです。

ところで、Randy Pauschのスピーチの中での、「レンガの壁」、人生の困難にぶちあたり、挫折を経験することに対する解釈には勇気づけられます。人生の壁にぶちあたらない人はいません、ソクラテスもプラトンも、ニーチェもサルトルも、みんな悩んで大きくなりました。

「壁」はあなたの真剣度を試しているのです。「壁」はあなたを止めるためにあるのではなく、あなた以外の人を止めてくれているのです。

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