百醜千拙草

何とかやっています

快楽主義

2021-06-25 | Weblog
しばらく前、ストア派のセネカの言葉について思うことを書きましたけど、私には合わんなあ、と思いました。時間を惜しんで努力して何かを成し遂げることに意義があると思うかどうかは個人の価値観によるでしょう。

知り合いの女性は旧帝大を一つ、そのあと地元の国立大学医学部を出た才女なのですけど、「私には向上心がないから」と言って、現在は専業主婦のマイペース生活を楽しんでおられます。学生時代によく遊んだ友人には試験勉強は寝転がって教科書を一回読むだけという人がいました。その才能や頭脳を使って何かを成し遂げたいとか金儲けをしたいとか地位を手に入れたいとかという俗人の欲というものが、これらの人々には乏しいようですけど、本人はそれで満足しているようです。むしろ頭がいいからこそ地位も名誉も金にも興味があまりないのかも知れません。

人は、幸福を得ようとしてものや金や地位などを外界に求めようとしますけど、幸福とは幸福感のことであって、結局は心の持ちようです。つまり、最上の幸福は「心の平和」であろうと私は思います。頑張ってアドレナリンを出して何かを成し遂げてドーパミンを出すのが幸福という人もいるだろうし、そんなことをせずともじんわりセロトニンやオキシトシンで幸福が保てる人もあるでしょう。

さて本題に戻って、ストア派と対照されるのがエピクロス派の快楽主義ということになっています。その「快楽」とはすなわち「心の平和」であること(アタラクシア)なのだそうです。ということで、私は快楽主義で行きたいと思います。

というわけで、今日はセネカではなくエピクロスの名言を。

 心の安らぎを得ている者は、自分自身に対しても他人にも迷惑をかけない

わずかなもので満足できぬ者は、何ものにも満足できぬ

正義のもたらす最大の実りは、心の平静なり

貧乏にあまんずるは栄誉ある財産なり

それから、もっとも有名なエピクロスの言葉は「隠れて生きよ」らしいですけど、私は共鳴しました。つまり、外界ではなく、自分の心の安寧に注意を向けるべきであるということだと思います。「わずかなもので満足できぬ者は、何ものにも満足できぬ」とか「貧乏にあまんずるは栄誉ある財産なり」というのは、逆に一見、ストア派の言葉のようにも聞こえますけど、心の持ち方の大切さを言っているのだと思います。一昔前、清貧の思想とかミニマリズムとかが流行りましたけど、思うに、本来、貧乏であることや持たないことそのものがよいのではなく、持たなくても心の平静を保つことができる能力の尊さを強調しているのだろうと考えられます。

少し前、FIREについて少し述べました。現在の資本主義社会では、自由な時間を確保して安心を保つための資金というのはかなりの額が必要であり、その資金を思うように使うわけにもいかないのですが、それでもこの生活スタイルを選ぶ人が増えたということは、物質の時代の終わりにあたって世界的に自由と心の平和(すなわち快楽)の重要さの認識が高まってきたということではないかと思います。
コメント
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