百醜千拙草

何とかやっています

のぞみとひかり

2020-09-29 | Weblog
まだ今年はあと三ヶ月ほどありますけど、2016末から始まった私の運気の下降はとどまるところを知らず、今年はさすがに底ではないだろうか、と思いたいのですが、予断を許しません。コロナの影響で多くの人が辛い思いをした年だとは思いますけど、私もその影響を受け、複数の問題がおきました。研究面では、長い手続きの末、ようやく来てくれたポスドクは3ヶ月で研究室閉鎖になってしまい、閉鎖がとけてまもなく派遣大学の方針で、ほとんど何もできずに、去って行きました。一人の実験助手もコロナで嫌気がさしたのか、別の道に進むと言って去り、そしてもう一人のポスドクもプロジェクトもほとんど進まないまま、キャリアの都合で辞めないといけない状況になったと週末に言われました。結果、このままだと4つのプロジェクトを二人の実験助手だけで回さねばならない状況に追い込まれそうです。資金はあっても人は簡単に見つからないし、見つかっても雇う手続きに数ヶ月かかるのが辛いところです。なかなかトンネルの出口の光明が見えません。

最近、故 河合隼雄さんが、新幹線の駅員との会話で啓示を得た時のエピソードを知りました。新幹線の席の有無をたずねたところ、「のぞみはないが、ひかりはあります」と言われ、啓示に打たれて、思わずその言葉を繰り返したら、駅員さんが「あ、こだまがかえってきた」と呟いたというエピソードです。

それに関連して、故 小林静観さんの言葉、「夢も希望もない暮らし」を思い出しました。希望や夢を持つということは現状に不満であるということの裏返しであり、禅でいう「いま、ここ」に生きていないということであるとの趣旨と思います。南泉は「ずばり、畜生道を行け」といい、過去や未来にとらわれず、現在のみに存在する「栄光ある生」をただ生きる動物に学ぶことを教えました。

過去と未来に囚われないということは、時間という軸に沿ってある我々自身のアイデンティティー、自我を超越するということでもあります。つまり、「のぞみ」は自我の意識から生まれ、自我があるゆえに希望も欲望が生じるわけですが、「ひかり」は自我を超越したところにある「生」そのものの輝きを喩えたものと言えるでしょう。

スランプが続くと、そのうち運気は好転するはずだという「のぞみ」にすがりたくなりますけど、運気が良い、悪いと思うのも、当たり前ながら自我ゆえであって、本当は、良い悪いとは無関係に、ひかり輝く生命が存在するだけなのでした。

とすると、今年は最低の運気ではあるが、最高に輝いている年でもあるのだな、などということを考えたりした週末。
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