先に僕の原発に対する考え方を言うと、現在の段階では浜岡みたいに安全性が低い原発は廃炉に向かわなくてはいけないが、具体的には言えないが、安全性が高いと思われる原発は暫定的に稼動させてもいいのではないかと思う。
しかしその安全性が高いと判断された原発も、徐々に廃止すべき方向に行かなくてはならないと思う。
今日も原発再開の是非を問う内容のテレビを観ていて気づいた事は、原発を容認する人の口から【確かな安全を求めて】という言葉が出ていたが、こう云った言葉は三月十一日以前の、日本国民が原発の安全神話に徐々に引き込まれていく原因になりかねないと感じた。
三月十一日以前と以後では原発の安全性確認の目は厳しくなっているとは言え、どんなテレビを観ても地震や津波に対す安全対策は何処でも言うが、原発を造るときの配管工事や溶接工事の信頼性を説いた内容の放送に出合った事がない。
今までの十倍や二十倍も地震や津波にたいする防災を考えた原発にしても、施工のやり方でその安全性の確率は大きく変わる。
配管の一部の溶接が弱かったり、フランジボルトを一本絞め忘れていたりすると、そこがウィーポイントになり事故の確率が増えるのは常識です。
僕が原発再開に対して気になる点は、原発本体の安全率を高めるのは当りまえであり、その他に原発事故が起りうると仮定した場合の事故に対する十分な対応策が練られているかどうかです。
安全な原発なんかは存在しません。
だから事故対応を国家規模で考える必要がある。
【確かな安全を求める】というよりも、【原発事故対応を万全に】という言葉を使って欲しい。
安全性を高める言葉を使いすぎると、再び、知らないうちに原発は安全なんだという変な神話がうまれそうで恐い。
また原発それぞれの危険性を数字で表した報道にもお目にかかった事がない。
しかしその安全性が高いと判断された原発も、徐々に廃止すべき方向に行かなくてはならないと思う。
今日も原発再開の是非を問う内容のテレビを観ていて気づいた事は、原発を容認する人の口から【確かな安全を求めて】という言葉が出ていたが、こう云った言葉は三月十一日以前の、日本国民が原発の安全神話に徐々に引き込まれていく原因になりかねないと感じた。
三月十一日以前と以後では原発の安全性確認の目は厳しくなっているとは言え、どんなテレビを観ても地震や津波に対す安全対策は何処でも言うが、原発を造るときの配管工事や溶接工事の信頼性を説いた内容の放送に出合った事がない。
今までの十倍や二十倍も地震や津波にたいする防災を考えた原発にしても、施工のやり方でその安全性の確率は大きく変わる。
配管の一部の溶接が弱かったり、フランジボルトを一本絞め忘れていたりすると、そこがウィーポイントになり事故の確率が増えるのは常識です。
僕が原発再開に対して気になる点は、原発本体の安全率を高めるのは当りまえであり、その他に原発事故が起りうると仮定した場合の事故に対する十分な対応策が練られているかどうかです。
安全な原発なんかは存在しません。
だから事故対応を国家規模で考える必要がある。
【確かな安全を求める】というよりも、【原発事故対応を万全に】という言葉を使って欲しい。
安全性を高める言葉を使いすぎると、再び、知らないうちに原発は安全なんだという変な神話がうまれそうで恐い。
また原発それぞれの危険性を数字で表した報道にもお目にかかった事がない。